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・葛葉紘汰はなぜ追い出されたのか 『仮面ライダー鎧武』の主人公・葛葉紘汰を代表するセリフといえば「絶対許さねぇ!」である。 彼は目の前で起こるインベスやオーバーロード、あるいはユグドラシルの非道に対して瞬間的な怒りの発露をその言葉に託す。それは目の前の相手がもしかしたら対話によって、説得や和解ができるかもしれない相手である可能性を、「絶対」という言葉によって一度手放す行為であり、そこにあるのはただただ感情的なその場だけの「怒り」だ。 その証拠に、葛葉紘汰は物語中盤から後半にかけてユグドラシルの幹部であった呉島貴虎や、オーバーロードの王であるロシュアなどとは和解し共闘する関係となっている。 つまり紘汰の「絶対許さねぇ!」は、なんの確証も決意も無く、その場の激情にまかせた勢いだけの言葉なのだ。しかしその無責任で考えの無い態度を持つからこそ『仮面ライダー鎧武』の中で、彼は「正義のヒーロー」として存在を許されているのだ。 その『鎧武』において紘汰の対岸にいる人物がユグドラシルの研究員・戦極凌馬である。 戦極は自身の目的のために、他人を欺き利用し果てには自分の体すらオモチャにする。そこにあるのは好奇心や激情に囚われながらながらも、それをコントロールし、理性によって自分の欲望を充足させる方法を探す姿だ。 自ら呉島光実に対し「君のような悪い子供は、僕のような悪い大人の格好の餌食だ」と言い放ち、世界の危機に対して「全部私のせいだ!ハハハハハッ!」と実に楽しそうに笑い声をあげたように、戦極には自分が「悪である」という自覚がある。 それは冷静で理性的な判断を推し進めていけばいくほど、他人に対する思いやりや善意は後退し、利己的な行動を取らざる得ないということだ。 『鎧武』における善悪は「感情的な紘汰による、無軌道な善」と「理性的な戦極による、計画された悪」という対立によって成り立っている(それは同じくニトロプラス『デモンベイン』での大十字九郎とマスターテリオンの関係、とくにデモンベイン招喚時の「憎悪の空より来たりて 正しき怒りを胸に 我等は魔を断つ剣を執る! 汝、無垢なる刃 デモンベイン!」というセリフにこの「無軌道な善」が色濃く現れているように見える)。 理性的に判断すればするほど「善」から遠ざかっていく世界で、その「善」を行使するには目の前の出来事に対して反射的に「絶対許さねぇ!」と叫ぶしかない。そこで自分の立場や相手の状況は、一度全て忘却される。 それは「本当の本当は、何のしがらみも責任も無い世界でなら、人は善を成したい」という性善説的な人間観が横たわっていて、そこに思想や理性や考察が入り込むことが「悪」が忍び寄ってくることになると言っているようだ。 「仮面ライダーに憧れる子供たち」に対して「今、君の感じるその直感的な憧れが正義であり、大人になって色々なものが纏わりついた時に”仮面ライダーに憧れた”自分に感情的に戻ればいい。それはきっと善なるものだ」というメッセージが託されているのだろう。 しかし、目の前のインベスやユグドラシルやオーバーロードといった「悪」の対象がいるからこそ、目の前の非道に対して「絶対許さねぇ!」と叫ぶことが「善」に成りえる。 それは『鎧武』の舞台となった沢芽市という狭い空間では通用するかもしれないが、「正義の反対はまた別の正義」と言われるような世界の中で、目の前のことに反射的に「絶対許さねぇ!」と叫ぶことの正しさは、その「目の前のこと」にしか作用できない「力の限界」を持って成立する。 だが紘汰は最終的にヘルヘイムの植物全てをコントロールする強大な力を手にすることになる。そうなったとき彼の「絶対許さねぇ!」の範囲は、目の前の出来事を越えて影響を与えて”しまう”のである。そうなったとき「正義の反対はまた別の正義」という言葉にぶつかってしまう。 それゆえに紘汰は、最終話前にその強大な力を引き連れて地球から出て行かねばならなくなったのである。 一から自分の手によって作り上げた世界ならば、誰かと誰かの正義同士が干渉する場面に立ち入らずに、自身の支配する「正義」で「目の前のこと」に介入することができる。 ・なぜ駆紋戒斗は神木になったのか 紘汰とも戦極とも異なった行動原理を持っていたのが駆紋戒斗である。 戒斗の目的は「強さを手に入れる」ことであり、また人々が「虐げられない強さ」を手に入れることでもある。 それは紘汰のような、目の前のことに大して感情を持って介入する「善」でもなければ、利己的にさかしく立ち回る戦極の「悪」ともまた異なった行動原理が働いている。 自分が助けるのではなく、虐げられた人間が自らの力によって救われていく「強さ」を得ることを望むその姿勢、あるいは暴力や策謀によって他者を虐げる者の「弱さ」を憎むその姿は、自身が誰かのためにあるわけでも、誰かが自身のためにあるわけでもないという「善でも悪でもない者」として存在している。 紘汰や戦極が、能動的にその「善と悪」を行使しようとしていた中で、戒斗は「強さ」という別の価値基準を堕ちだすこと「善でも悪でもない」ものを、言うなれば「環境」を作り上げようとしたのである。 それは紘汰が他の星で一からインベスたちの世界を作り上げた行為と似てはいるが、過干渉がおきかねない問題を回避するため地球からはなれた紘汰に対し、戒斗は自身が許容できる「強さ」と「弱さ」の範囲を広げることで、世界に対する干渉を抑制し世界を見守る役割を選んだ。 だからこそ戒斗は、神木となることで地球の「環境」というシステムの一部になったのである。 ・呉島兄弟になにがあったのか SABE先生の名作『地獄組の女』には、次のようなくだりがある。 「真の正義とは悪を裁くのではなく悪を正すことを言うのです。しかしそれは、もともと人の心を持っている者にのみ有効な手段で……」 「ハァ」 「真の悪に立ち向かうにはそれを上回る悪にならなければダメです。正義の人にはそれが不可能です」 「じゃあ一体どんなヤツならそれが出来るんで?」 「それは……正義でも悪でもなく、正義にも悪にもなれる。何にでもなれる人間です」 紘汰は「正義の人」、戦極は「悪の人」そして戒斗は「正義でも悪でもない人」という役割を与えられている。 物語前半でユグドラシルの幹部であった呉島貴虎は、紘汰に感化される形でユグドラシルから離反した。 その弟である呉島光実は紘汰と同じくチーム鎧武に所属していたが、紘汰のやり方では満足できず独自にユグドラシルと手を組み実質紘汰を裏切ることとなるが、最終話において紘汰の居なくなった沢芽市を守るために立ち上がる。 呉島兄弟の中には、自分たちが犯した過ちへの深い後悔がある。 それは一度「悪」を通過してきたからこそ生まれる悔恨であり、自責の念だ。 もともと「善」の側にいた光実が「悪」に堕ちてしまったように、常に正しい「善」の側にいることは難しい。紘汰のように感情だけで目の前のことに「絶対許さねぇ!」と叫ぶことは、つまり人間としての理性を捨て去ることに等しい。 悩み迷う呉島兄弟にとって紘汰のような「正義」のあり方は、眩しい憧れであると同時に絶対に辿り着けない境地なのだ。だからこれからも呉島兄弟は悩み迷い続ける。それは彼らが神にも神木にもなれず、死ぬこともできない「人間」であるかぎり避けようの無いことだ。 呉島兄弟は「善」と「悪」の両方を通過し、「正義にも悪にもなれる」ことを自らの身でもって体現した。 そして今後の彼らを「善」に「正義」に留め続けることができるものこそ「悪であった悔恨」なのである。 呉島兄弟の中の「正義」が揺らぎそうになった時、その「悪」であった記憶が彼らの脳裏に蘇る。それは一生薄れることのない痛みをともなった記憶だ。 その痛みが彼らの足を「悪」から遠ざけ「善」へと呼び戻すのである。 そしてそれは同時に失敗の肯定でもある。呉島兄弟が陥った「悪」はしかしその罪によってより強固な「正義」への礎へとなって、その胸に刻まれている。過ちは正すことができる、そしてその過ちこそが正しさを支えていくのである。 ただひたすら目の前のものに対応するだけの「善の人」 理性と思考によって利己的にしかなれない「悪の人」 新しい行動原理によって環境となった「善でも悪でもない人」 そして、どちらも経験したゆえに確固たる正義を手に入れた「善でも悪でもある人」 『仮面ライダー鎧武』とは、そんな「善と悪」のグラデーションの中でもがき続ける呉島兄弟を描き、そしてその姿には現実にこれからの人生で「善と悪」を選び取っていかなければならない子供たちへの想いが託されているのである。
by SpankPunk
| 2015-02-18 23:18
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