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・「あなたに優しい場所」から遠く離れて 「居心地のいい場所を離れ、冷たい風に触れよ」 衛藤ヒロユキの出世作『魔法陣グルグル』の主人公であるニケとククリ。この二人には常にこの言葉が投げかけられる。 二人は「勇者」と「魔法使い」として生まれ育ったジミナ村を旅立ち、魔王ギリ討伐に向かう。その背中にククリの母親代わりである魔法オババが投げかける言葉が「居心地のいい場所を離れ、冷たい風に触れよ」というものである。 そしてその後にはもう一つセリフが続くのである。「それが始まりじゃ」と。 つまり「居心地のいい場所」には「始まり」は存在しない、旅立つこと、あるいはその身を「冷たい風」に晒すことでようやく「始まる」のである。 そして、ここで旅立ちの理由は覆されている。 「魔王ギリを倒すため」に旅立ったはずのニケとククリは、しかしその目的をすぐに「始まること」にすり変えられてしまうのである。それはまるで「魔王ギリ」という存在が「始まること」という目的に応えるために、後から作られた都合の良い設定であるかのようにだ。 「居心地の良い場所を離れ、冷たい風に触れよ。それが始まりじゃ」 すべての目的は「始まること」にある。 そして「始まりが無い場所」である「居心地のいい場所」とはどこなのか? 坂上秋生の『惜日のアリス』に、同様の言葉が二度――それも作品の序盤と終盤に――現れる。一度目は主人公を雇っている映画館のおばあさんが「ここは随分とあんたに優しい場所だね」と、主人公の失態を許した時に。そして二度目は消えた主人公の恋人ナルナによって、主人公がこれから手放そうと決意する小器用で優しくそして痩せ細っていく世界を「ここは随分とあなたに優しい場所ね」と呼ぶのである。 『惜日のアリス』内でも『魔法陣グルグル』と同様に「居心地のいい場所/あなたに優しい場所」は、離れたり手放したりする必要があるものとして書かれている。 そしてそれはある程度自主的な旅立ちとして描かれている『グルグル』よりも、よりコントール不能なもの、あるいはその「居心地のいい場所」を破壊する/されるリスクを抱えたものとして”それでもなお”離れていかなければならない、というある種の切実さでもって『惜日のアリス』では書かれている。 ではそこまでの傷を負って、痛みを堪えて、それでも何故「居心地のいい場所」を捨てなければならないのか? 『魔法陣グルグル』では幾度も「旅立ち」が描かれているが、その中でもっとも印象的なのは単行本13巻に収録されている「レフ島編」である。 予言者ガルニエに招かれ「レフ島」にやってきたニケとククリであったが、島のどこにも予言者はおらず、島を脱出しようにも見えない力に阻まれ引き帰すことしかできない。一ヶ月以上足止めをくらい、降り始めた雨がいつまでたっても止まず、生まれたばかりの子猫もまったく成長しない。 この「レフ島」では、いつの間にか「時の流れが止まって」しまっていたのである。 「レフ島」での暮らしは辛いものではない。この島で暮らすうちに友人も出来る、危ない目にも合わない、安定した優しい毎日が何も変わらずに続いていくのである。 それの何がいけないのか。本当に何も進まず、何も変わらず、安定して優しいのなら何も困らない。 でもそうではないのである、時の流れが止まってしまうことは「つらい」のだ。『グルグル』作中では「レフ島編」のキーパーソンである人物の母親がこう語っている。 『「もしこうだったらどうだろう」「あれになりたい」「これになりたい」。こどものころ、時間は止まっていたわ。雨が降って外に出られないときのように』 『でも、ひとつの夢がかなうのとひきかえに…時間が流れて大人になってしまうの』 『でもわたし、大人になってよかったと思うわ。いつまでも夢がかなわないのはつらいもの』 『魔法陣グルグル』は「こども」たちの「こども」でなければ出来ない戦いを描いた物語だ。「こども」は立ち止まる事が許されている、悩むために、迷うために。そしてその立ち止まった中で、何でも出来る自由の中から何かを選ばなくてはならない。 それはきっと、傍目で見ている大人からすれば楽しく好きな物に満ち溢れた世界に見えるだろう。けれども、そこには選んだ何かを叶えるための「時間が流れて大人になってしまう」苦しみと、その何かを手に入れるための全身全霊の戦いが待っている。 『惜日のアリス』においても、主人公アキラは子供時代の自分(のようなもの)と出会い対話する。その中で気が付くのである。 《あの子が羨ましかったわ。枷がないんだもの。自由に書き散らしても文句を言われないんだもの。好きな言葉だけを人に向けて喋り続けることができるんだもの。けれどもそうじゃないのよ、本当は。彼女には彼女の闘いがあった。夢の国で、おとぎ話の中で、足りない頭を全力で回転させていろいろなものに抗っていく意思があった》 「あなたに優しい場所」にいる限り《自由に書き散らしても文句を言われないんだもの。好きな言葉だけを人に向けて喋り続けることができる》でも本当はそうじゃない、「居心地のいい場所を離れ」そして《彼女の闘い》繰り広げ、「冷たい風に触れ」なければならない。 それだけが時間を先に進めることを、夢を叶えることを、唯一自分の元に手繰り寄せる方法なのである。そしてそうすることだけが一見優しく居心地のいい場所/あなたに優しい場所に見えて、その実は痩せ細っていく、夢が絶対に叶わないつらい場所から抜け出す唯一の方法なのである。 そして「それが始まり」なのだ。 ・「たまには時間を止めて夢を見ましょう」と大人は言った さてそれでは「始まり」が必要なことは解った。ではその「始まり」の後にくるものは? 『魔法陣グルグル』において「グルグル」と呼ばれる魔法には、理論体系が存在しない。作中において「グルグル」以外の魔法は教授されたり学習することによって使用可能になるが、「グルグル」はそうでは無い。 ククリの心(ハート)の状態によって「グルグル」の結果は変質し、その揺れ動く精神が「グルグル」のパワーとなるのである。先に述べた「こどもでなければ出来ない戦い」がここにある。もっとも心(ハート)が揺れ動く「こどもの時代」でなければ「グルグル」はその力を発揮することがないのである。 そしてそれは大きな「力」になると共に、非常に不安定な「力」であることを意味している。「グルグル」の元となる「揺れ動く心」は、揺れ動くが故にコントロール不能なものだ。 その力の暴走は自分の好きな人をこの世から消してしまったり、術者を悪魔の姿に変えてしまったりといったネガティブな効果を引き起こす。 一方でそれは破壊されてしまった世界全体を修復し書き換えていけるほどの、強烈にポジティブな結果をもたらすのである。 しかし、それらは本質的に同じ「失敗」なのである。 予想もつかない結果を引き起こせる/引き起こしてしまうこと。それは結果がポジティブなものであれネガティブなものであれ「コントロール不能である」ことがその根本にある。 つまり「グルグル」とは「コントロール不能」なものを呼び出すことを目的とした「失敗」を元にした魔法なのだ。 「居心地のいい場所/あなたに優しい場所」には「失敗」は無い。 なぜならそこは《自由に書き散らしても文句を言われないんだもの。好きな言葉だけを人に向けて喋り続けることができる》からだ。そこに「私の言葉」を受け止めて注意する人間はいない、時が止まったように何も変わらず、何の願いも叶わない。 夢を叶える為には時を先に進めなければならない、何かを変えなければならない。しかし時の止まった「居心地のいい場所/あなたに優しい場所」では「失敗」することすらできないのである。 だからそこから離れて「始まり」を手に入れなければならない。そしてその「始まり」の後にくるものこそ「失敗」なのだ。 「失敗」すること、いや「失敗」”できる”ことでしか「グルグル」を使うことは出来ない。 そしてその「失敗」の最果てにある「最強のグルグル」によって、ニケとククリは天界(作中でプラトー教の「聖なる理想郷アナスタシア」とも呼ばれる、まぁ天国みたいなところ)へと向かうのである。 そしてその「最強のグルグル」の魔法陣が描かれる過程で次の言葉が語られる。 『ククリのおしゃべりはとまらない。つぎからつぎへと』 『ジミナ村を出て今日までのすべてのことが、巨大な魔法陣を作っていく』 「失敗」できることに加え、「すべてのこと」を言い終えるまでとまらないおしゃべりという「語りきれない」こと。 それらによって作られた魔法陣が二人を天界へと招くのである。 一方『惜日のアリス』で、主人公のアキラは「楽園」へと向かう集団とすれ違う。その中でアキラは「楽園」に入るにはパスワードが必要で、そのパスワードを今の自分は知らないことを告げられる。 しかし、そのパスワードはアキラの眼には見えないだけで本当はその胸に確かに刻まれているのである(《あなたと莉々花は、今とても近い場所にいるのよね》《そうよ。とてもとても近い場所。だからこそ、あなたは決して私たちを見ることができない》)。 アキラはナルナとの電話でこう語る。 《ああ、上手くまとまらないんだけど……おびえながらも、そう、正しく世界にぶつかっていこうという気概……》 あるいは 《ああ、何て言えばいいのかしら……私が今紡ごうとしている言葉はバラバラで、だけど繋がっていて……正しい呼称が見つからないわ》 これらは「始まり」が必要なこと、そして《上手くまとめる》こと《正しい呼称を見つける》ことに「失敗」し、それでも《今紡ごう》とする「語りきれない」ことが、アキラの胸の中に確かにあることを示している。 『魔法陣グルグル』で天界に向かうのに必要だった「失敗」することと「語りきれない」こと、それと同様に『惜日のアリス』で「楽園」に入るのに必要なパスワードも「失敗」することと「語りきれない」ことに集約されていくのである。 それでも『惜日のアリス』のアキラは最後まで自身がパスワードを見つけていないと言及する。「最強のグルグル」を見つけられたククリと、パスワードを見つけられないアキラの差はどこにあるのか。 ニケとククリが繰り広げたのは「こども」だから出来る戦いだ。それはこの戦いの後で「こども」を終えなければならないことを約束されたものでもある。 戦わないことと同様に「戦い続けること=こどものままでいること」も一つの「居心地のいい場所」でしかない。だからこそ、ニケとククリには戦いを「始める」ことと同じくらい、戦いを「終える」必要があったのだ。いつまでも曖昧なままではいられない、どこかで決着をつけて、そしてまた「旅立ち」を迎えなければならないのである。 しかし「大人」はそうもいかない。 「こども」から「大人」への区切りなんて、あるいは「今までいた場所」と旅立った先に「これから向かう場所」との区切りなんて、実際はあって無いようなものであることを「こども」から「大人」になった私たちは知ってしまっている。 どこかで踏ん切りをつけて「居心地のいい場所/あなたに優しい場所」を離れてみたところで、それは辿っていける地続きの場所にしかならないのだ。 それでもやっぱり「居心地のいい場所/あなたに優しい場所」からは旅立たなくてはならないし、辿り着けるようには思えなくても「天界/楽園」を目指さなければならないのである。 『私は今でもパスワードを見つけられずにいる。唯一の正解はまだ遥か遠い場所にある。けれども私はあの子の前でたくさんの言葉を紡ぐことになるだろう。たどたどしく、しどろもどろで、一貫しておらず、明晰さにかける言葉を長い時間吐き出し続けるだろう』 アキラが言うように、私たちは言葉を吐き出し続けるしかないのである。 「失敗」できること「語りきれない」こと。 『魔法陣グルグル』ではその力によって、新しい「始まり」に向かえること「天界」に辿り着けることを示した。それはこれからの可能性と戦う「こども」への祝福である。 『惜日のアリス』ではその「上手くいかない」ことを手離さずに抱えて生きていかなければならないことを示している。それは今この場所にある可能性と向き合う「大人」への祝福である。 「惜日(せきじつ)」……私たちは昔はみんな「アリス」だった。目の前にある無限の可能性に眩暈を起しながら持ち合わせた不完全さで必死に戦っていた。 そして「大人」になった今、この場所にある可能性に歯軋りしながら持ち合わせた不完全さで必死に戦っている。 『惜日のアリス』は、そんな元「こども」への肯定と応援、そしてたぶん共闘を書いた小説なのだ。 「のだ、って言わないで」
by SpankPunk
| 2013-05-03 20:34
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