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まずは正直に言おう。 アニメ『日常』は2クール目から爆発的に面白くなった。 少なくとも私はそう感じた・・・それは何故だろうか? あらゐけいいちの『日常』は読者からすればまったく日常ではない。では一体これは誰にとっての『日常』なのか? それは考えるまでもなく、作中人物にとっての『日常』だ。 それでは何故、私達にとっての「非日常」がキャラクターにとっての『日常』になるのか?それは彼等にとって存在するのは作品内の出来事が全てであり、その「外側」で起こっていることを知ることができないからである。 故に彼等は目の前の不条理を―それはむしろ不条理であればある程―「当たり前の光景」として受け入れていくしかないのである。 あらゐけいいちにとって『日常』は隔絶された箱庭であり、そこに対する「観察力」が『日常』を作品足らしめているのである。 一方アニメの『日常』において、京アニの力によってかなり高いレベルの作画が行われている。 そ表現力は細かい所作によるリアリティとそれを表現する手腕であり、それは高い「観察力」によって可能となっているのである。 しかしここで出てきた二つの「観察力」という言葉は、実際のところまったく別の方向性を持つのである。 あらゐけいいちにおける「観察力」とは上で述べた様に、「箱庭を外から見る」ためのものである。 一方京アニの「観察力」とはリアリティを持ちうるレベルまで対象を分解する視線であり、それは「対象と同じ位置で見る」ことによって可能となっているのである。 この「本来は別々の視点に立っている」ものを強引に一緒にしたこと…それがアニメ『日常』に対して感じた違和感の正体なのである。 私自身がその違和感を最初に、そしてもっとも感じたのが前期OPの『カカカタカタオモイ』における「恋に落ちたのだなー」部分のゆっこ、みお、まいの動きである。 あらゐけいいちの「観察力からのギャグ」は箱庭の外から眺めている「観察者」の存在を作中人物は意識してはいけない、故に作中人物は「作中での行動を自然に振舞わざるえない」。 それに対して京アニの「観察力からの動き」は、それが自然かどうかを査定する視聴者に自覚的であり、故に作中人物は「自然に見える動きを装わなければならない」 前期OPのシーンにおいて、本来「観察者を意識『しては』いけない」あらゐけいいちのキャラクターが、京アニの壇上に上がることで「観察者を意識『しなくては』いけない」様になってしまっている。 だから彼女達は、画面外の観察者を見つめているのである ![]() つまり、観察者(作者/読者/製作者/視聴者)に対する「キャラクターの振る舞い/装い」が齟齬を起こしているのが、『日常』が持っていた違和感の正体なのである。 しかし、この違和感―あるいはあらいけいいいの『日常』と京アニの『日常』が噛み合わず、上滑りしている感覚は2クール目前後から鳴りを潜める。 なぜこの二つの視点が「噛み合うようになった」のか?それは12話のエピソードに現れているのである。 12話内の一場面において、笹原が立花にいつものように撃たれる…がここで異常事態が起こる。 笹原が「どぉう」という声を上げながら吹き飛ばされたのだ。 ![]() これは原作『日常』でも、このシーンを除いたアニメ『日常』でも唯一の出来事である。 基本的に立花みさとの銃撃は明確な被害を与えない。撃たれた相手は(そのほとんどは笹原なのだが)白く粉を被ったような状態になるものの、特にそれ以外何かダメージを受けることもなく、また銃撃に対するリアクションもほぼ無い。 つまり12話のこのシーンは、『日常』の世界ではかなり特殊な挙動なのである。 この「どぉう」の瞬間、笹原というキャラクターはあらゐけいいちの手を離れ原作『日常』の人物からアニメ『日常』の人物となったのである。 京アニのものとなった笹原にとって、背後から命中した銃弾に対して「その衝撃で前方にもんどりうって倒れる」というのは『観察力からの動き』からすれば当然のことなのである。 そして14話から変わった『じょーじょーゆーじょー』のOPにおいて、一見前期OPと変わらぬ視線であるかのようではある ![]() しかし14話冒頭において「なのが学校に行くようになる」という話のイントロがあり、更には制服を着たなのが家から出るシーンがOP内で続くのである。 ![]() これは「ゆっこ達」と「なの」が断絶していた前期OPにおいて、ゆっこ達3人の視線の先には「観察者(視聴者)」しかいなかったのに対し、後期OPでは3人の視線の先には「なのもいる」のである。 つまりここでは前期OPと違い「3人の目線がなのに向いている」という『箱庭の外の観察者』と、「3人の目線が視聴者に向いている」という『同じ位置で見る観察者』を両立させているのである。 これはOP後半でも、「俯瞰による視点=箱庭の外の観察者」のカットから ![]() 「視聴者と見つめ合う視点=同じ位置で見る観察者」のカット ![]() が連続して現れることからも良くわかるのである。 笹原の叫びにより『日常』のキャラクターを自分達のものにした京アニは、ここでついに『箱庭の外の観察者』と『同じ位置で見る観察者』の視点を同時に手にすることができた。 その二つの「視点」を自在に振るえるようになった事が、アニメ『日常』が2クール目から面白くなった理由なのである。 追記: ツイッター上にて、酢めし( @sumeshi360 )さんから『確かに日常2期EDの洛中洛外図は箱庭!って感じですもんね。』というメンションを頂き、すっかりその事を失念していたので追加します。 EDの映像は街全体を東から西に全体を映していくという、まさに「俯瞰による視点=箱庭の外の観察者」からの映像となっています。 ![]() そしてここで流れる曲は主に主に小中高校の合唱コンクールや卒業式などで歌われるようなものであり、誰もが一度や二度は口にしたことはあるものである。 これはつまりOPでは映像によって【『箱庭の外の観察者』と『同じ位置で見る観察者』の両立】を行い、EDでは【『映像』と『音』】によってそれを成立させているのである。
by SpankPunk
| 2011-11-16 01:13
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