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つぼみはシャイで小心者の自分を「変えたい」と思っていた、えりかはもも姉ぇみたいになれない自分を「変えたい」と思っていた。そして変われたのだろうか? えりかは、自分はもも姉ぇじゃない。だからもも姉ぇに「なる必要は無い」、私は私にしか出来ないことをする!という結論を出した。つぼみはシャイで引っ込み思案な自分を、それもまた自分だと認めた。 つまり、ここで「変わった」のはえりかの体でもつぼみの性格でもなく、「その受け止め方」だ。 考えてみれば、今までのプリキュアは「敵の計画」によって起きた「特殊なトラブル」をプリキュアが「解決して」世界を「常態に戻す」という話だった。しかしハートキャッチにおいて「トラブル」の発生に砂漠の使徒は一切関与していない。 ハートキャッチ作中において、キャラクターに起きる「日常的なトラブル」を利用して砂漠の使徒はデザトリアンを呼び出す。つまりプリキュアがいくらデザトリアンをいくらシバいても、それは「根本的な問題」を一切解決できない(これに関しては前半に結構言及されていたように思う)。 それでもデザトリアンを倒す事によって「心の花」は元気を取り戻し、キャラクターに起こった「日常的な問題」は解決する。そう、キャラクター自身は「何も事態は変わっていない」のに解決するのである。 じゃあ例えば砂漠の使徒も出てこない、プリキュアも出てこなかったら、その「日常的な問題」は解決不可能なのだろうか?例えば友人間の軋轢は、親とのすれ違いは、プリキュアがいなければ「解決出来ない」問題なのだろうか?当然そんなワケは無い。 時間はかかるかもしれないが、それは「自力で解決できる」あるいは「解決しなければならない」問題だ。更に、萎れた「心の花」は問題が解決すれば元気になる。 つまり「心の花」の状態が変化しているだけで、プリキュアの(あるいは砂漠の使徒の)力によって「心の花」の数が増えたり別の花になることは無い。 つまり物語の最初から最後までキャラクターは「何も変わっていない」のである。 プリキュアがデザトリアンをシバき倒す事は「萎れた花」を早く回復させる装置として機能しているが、本質的な変化は起きていない・・・変わるのはキャラクターの「気の持ちよう」だけだ。 結局のところ「私、変わります!」と言って変わっているのは、オシャレな服だったり、かけるべき言葉だったり、そういった「ほんの少しの気持ち」だけである。 ハートキャチプリキュアでは「変われるもの」と「変えられないもの」が残酷なまでにハッキリと明言されてしまうのである。 「人は簡単に変われない。変えられるのはちょっとの気の持ちようだけ。」 そんな身も蓋もない現実を突きつけるハートキャッチ。しかしそれでも心の花が萎れたキャラクター達は「自力で問題を解決していく」。 何故「本質的には何も変わっていない」のに問題は解決されるのか? その「本質は変わらないのに問題は解決される」この結果が導くメッセージはたった一つで、 「あなたはそのままで十分に強い」ということなのです。 気持ちが落ち込めば負けそうな時はある、でもあなたのそのままの力がちゃんと発揮されれば(心の花が元気なら)あなたはそのままのあなたで障害を乗り越えられる ムーンライトさんがやたら強いのは販促g・・・じゃない彼女は「自分の力をちゃんと使えば」十分に相手に対抗できる事を今までの経験から学習している為、「変わらないといけない」と思ってるブロッサム達と潜在的な力は同じでも、その発現に差が出ているのです。 そして、そこから自ずと現れる「デザトリアンは私達の領分だけど、問題は自力で解決しないとね!」というブロッサム達の態度は、歴代プリキュアの中でも特に「ストーリー」と「戦闘」が乖離した「民事不介入プリキュア」になっているのです。(お前「民事不介入プリキュア」って言いたかっただけちゃうんか的な) じゃじゃじゃじゃじゃあ、それがテーマだとして、じゃあ結局つぼみは、えりかは、いつきは、ゆりさんは、結局何も変われないの? きっとそんな事は無い。番組が終わる頃には1年前のつぼみには出来なかった事が出来るようにはなるのです。 それはまだシャイなままでも引っ込み思案なままでも、1年前よりは「それでも踏み出す1歩」が確実に違ってくるハズ。 そしてそれが「14歳のリアルな1年間でも成長」だと思うのです。人間はそんなに急に変われない、でも1年あれば「1歩を踏み出す」様に変わることができる。 それはきっとつぼみが「プリキュアであろうと無かろうと」変わることが出来た「本当の1歩」なのです。そしてこれは「おじゃ魔女」でも描かれていた『本当に大切なものは、魔法なんかじゃない』という部分の継承になっているのだと思います。 「ハートキャッチはフレッシュと比べて「物語を積み重ねる事」が出来ていないのでは?」という言葉に刺激を受けて、こんな事を考えてみました。 上記した様にハートキャッチの積み重ねは非常に非常に薄い膜で出来ていて、一見「何も物語が積み重ねられていない」様に見えます。それはフィクションのダイナミズムを捨ててまでも、リアルな成長譚を描こうとしている勇気だと、私は受け止めました。 最終話でそんな話が語られなかったら、大ハズレで恥ずかしいなw と思いながら「1年待って初めて桜はまた咲くんだぜ」とブロッサムにかけて締めたいと思います。 【追伸】 以上の話をツイッターでしていたところ【「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」 三国志演義より呉の武将、呂蒙の言葉 】という強烈な突っ込みを受けて、思わず言葉が詰まってしまいました。 確かにその通りです・・・数日考えましたが、私には反論する言葉が見つからない!どうしよう! ただ内面を変えるには、そういった毎日の変化の積み重ねであって。私達からみれば小さな1歩も、彼女自身においてはとんでもない跳躍なのです!とは思ってみたり・・・。 【追伸2】 えりか超ラブ
by Spankpunk
| 2010-11-24 22:38
| アニメ
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