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シャダイじゃないよ遮断だよ! 今回の記事は「けいおん!!」最終回に関する論争を読むうちに思い至った事を述べていきます。 なお以下の作品のネタバレを含むのでご注意ください:ビューティフルドリーマー・千と千尋の神隠し・仮面ライダーディケイド・ゲド戦記・崖の上のポニョ・仮面ライダーW・けいおん!!・アイアムアヒーロー 「現実に帰る」物語 まず過去の作品がどのようなメッセージを発していたか、具体例とともに見ていきたいと思います。 古い作品としては、押井守の「ビューティフル・ドリーマー」から読み取っていきます。この作品において「ラムの夢の中」は幸福ではあるが閉じた世界であり、危険因子はその世界から徹底的に排除されてしまう。 そして、それを良しとしないあたるによって「夢の世界」は破壊され「文化祭当日」という「現実」に帰ってくることが出来た。 ジブリにおいては「千と千尋の神隠し」において同様のメッセージが強く表されており、千尋は両親を豚から元の姿に戻す=「千の世界」から「千尋の世界」へ戻る為に奔走する話である。(実際は「千の世界」も「千尋の世界」も、どちらも正解となりえる強度においては差が無いのだが、その話はまた別の機会に) また比較的新しい作品では「仮面ライダーディケイド」において、様々な「他のライダーの世界」を渡り歩く事によって、最終的に「本来の自分の世界」へ辿り着く事を旅の目的としている。 以上の3作品が共通して持っているメッセージは「虚構から現実に帰れ」というものであり、これは他の様々な作品にも多かれ少なかれ含まれている場合が(特にオタク向けアニメにおいては)多かった。 それは押井や庵野が訴えていた危機感であり、島宇宙化し閉じ籠る事を批判した結果だったのであろう。 しかし私達は、そのメッセージを果たして正確に受け止める事ができていたのだろうか? 「虚構」は私達に「現実」に帰れと訴えかける。 その訴えを体現するかの様に、虚構内の主人公は現実に帰るため不断の努力をしそして虚構の壁を打ち破り現実に帰っていく。 しかし、すでに現実に住む私達にとってそれは「憎むべき現状」を打破し「愛すべき環境」を構築せよ、という意味になってしまう。しかしながら、それは簡単な事ではない。 特に力の無い子供にとって、与えられた環境を大きく変える事はほぼ不可能である。唯一取れる手段は、その環境に「適応」してどうにか折り合いを着けていくことである。 上であげた作品で言えば各々の主人公よりも、千尋の努力によって豚から人間に戻る事が出来た両親や、「ラムの夢の世界」に上手く順応し生活していたメガネ逹、あるいは士に連れられて一緒に旅をした夏みかん。そういった(主人公を含む)環境に左右される立ち位置の方が、実際に私達が「直面しなければならない現実」に近いのではないだろうか。 「誰が」現実に戻すのか? そんな中で見せられる「主人公が虚構から現実へ帰る物語」が与える感情の一部には、「自分には物語を動かす力は無い」という「脇役感」があるのではないだろうか?(もちろん主人公に感情移入するように作品は作られている場合が多く、この感覚を誰もが必ず感じるわけでは無い事を念の為補足しておく。) その結果「虚構から現実に帰れ」というメッセージは私達にとって「虚構から、誰か(ヒーロー)が私(脇役)を現実に『戻してくれる』」というメッセージになってしまっているのである。 そのメッセージの誤解がもっとも解りやすく現れているのが、ジブリの「ゲド戦記」である。 これは原作の3巻「さいはての島へ」をベースにした物語であり、要約すると「主人公であるアレンが大賢者ハイタカ(ゲド)に導かれ、世界の再生を見届ける」という話である。 なぜ自分の中の闇との戦いである1巻や、解放される魂の物語である2巻をベースとしなかったのか。 それはまさに誤解されたメッセージ通り、「誰か(ハイタカ)の力によって、私(アレン)を現実に戻す」物語を作ることが目的だったからである。 「誰かが自分を助けてくれる」というのは幼い子供の思考であって、そこから「自分を助けるのは自分の力である」つまり「現実を変える手段は自分の力にしか無い」と気がつくことこそ大人へのステップだとするのなら、「虚構から現実に帰れ」というのは「大人になれ」というメッセージである。 そのメッセージを発信していた宮崎駿が「ゲド戦記」に対しての言った『大人になっていない、それだけ』という評価は、恐らくはこの「誰かが私を現実に返してくれる」という考えから抜け出せていないことを示していたのでしょう。 しかし実際に私達は現実にいる以上、自分達を主人公(ヒーロー)にして現実に戻らなくてはならない。しかしそのメッセージを届ける事は失敗してしまった。 ならば、虚構は新しいメッセージを伝えなければならない。 私達は遮断される その誤解を孕んだ「ゲド戦記」を批判した宮崎駿が作ったのが「崖の上のポニョ」である。 「ポニョ」においてソースケは津波の後、「陸の世界」に戻る事をせずポニョと共に「海の世界」で生き続ける事を選択した。それはソースケだけでなく、津波によって沈んだ「陸の世界」の全てを「海の世界」が受け入れ、飲み込むという事である。それは作品内において表現された世界の全てが「海の世界」になり二度と「陸の世界」には戻れない、ということだ。 また最近の作品では「仮面ライダーW」において、前作「ディケイド」のメッセージをそのまま表現するのなら『風都の平和を取り戻した翔太郎が、別の街を救う為フィリップの思い出を胸に旅立つEND』という終わりであっただろう。しかしフィリップは生き返り風都の中で今後も探偵として、仮面ライダーとして暮らしていくことを選んだ。「W」の中で世界は風都の中で完結し、外の世界へと出て行くことは無かった・ そしてほぼ同じ時期に最終回を迎えた「けいおん!!」において、4人は高校から卒業するも同じ大学に進む。「けいおん!!」はキャラクターによって支えられた世界であり、そのキャラクターがそのままの関係で居続けるということは、「けいおん!!」の世界は終わらず永遠にそこに留まっているということである。 この3作品の結末に共通するのは、その作品世界が「閉じ篭る」ということである。 「ポニョ」は「海の世界=死の世界=虚構」に閉じ篭り、「陸の世界=生の世界=現実」に戻る事は無い。「W」は「風都=虚構」で探偵のまま、「外の世界=現実」に旅立つ事は無い。「けいおん!!」は「4人の関係が継続する=虚構」のまま続き、「バラバラになること=現実」に至る事は無い。 つまり「虚構」は「虚構」としてそのままそれを継続する結末を迎え、そこには「戻るべき現実」は存在しない。「現実」は視聴者の中に存在しており、「虚構」は「虚構」の中に引き篭もる事によって視聴者は「自分の中にある現実」に戻っていく。 そこには今までのような「虚構から現実に帰れ」というメッセージは無い、そこにあるのは「虚構は虚構のまま終わり私達を導かない」という宣言だ。虚構は虚構の中で完結し、現実に手を伸ばす事は無い、その二つの世界は完全に遮断されてしまったのである。 遂に「虚構」は私達を「現実」に帰す手段では無くなってしまった。 「虚構は現実を遮断する」事によって、私達が帰る余地も無く「現実」の真っ只中に放り込まれている事を再認識させる装置となったのである。 私達の現実は虚構から完全に遮断されてしまった。 その上で私達はどうしていくべきなのか? ヒーローという突破口 その解答となりえる作品が、現在週間スピリッツで連載中の「アイアムアヒーロー」である。 主人公は35歳、漫画家のアシスタントで食い扶持を稼ぐ売れない漫画家で、これまた大変なヘタレである。その彼がゾンビ系パニックムービーの様な状況に突然叩き落される。 しかし危ないと思っても周囲の目を気にして逃げ出せなかったり、女子高生と自転車二人乗りで逃げる時にも自分は後ろに乗ったりと・・・非常に情けない、が情けない故に「まさにリアルな自分」を見ている様である。 そして特徴的なのが、彼は狩猟免許を持っており猟銃を所持しているという設定。この「銃」という武器を持っている現実的な理由付けはあるのですが、一般生活を送ってる中で目にする事は殆ど無い・・・この「銃」だけが彼の持つ「虚構性」なのです。 が「銃」でゾンビ(みたいなもの)を撃とうにも「人間に銃を向けるのがこんなに怖いなんて」と結局撃たず、その後ゾンビを打ち抜いたのもただの暴発。さらにはパニック状態の場から逃げる為に、「銃」で脅して道を開けようとするも誰もどいてくれない。 この「銃」は作中においてまったく役に立っていないのです。それはつまり「現実」に対して「虚構(銃)」は何の効力も持たないという、やはり「遮断」の意味が込められています。 しかし彼はそれでも生き延びている、言い換えれば「現実」と戦えている。それは何故か。 それはタイトルの通り「アイアムアヒーロー」、彼自身がまぎれも無い「主人公(ヒーロー)」だからです。「主人公だから死なない、とか当たり前じゃないか」とお思いになるでしょう。しかしここで「アイアムアヒーロー」と叫ぶ相手は、私達が実際に直面している「現実」なのです。 もう一度「現実」に対して「私が主人公だ」と宣言することによって、手放してしまった「現実を変える力」を取り戻す事を説いているのです。 そして、その力を取り戻す為に私はバカにされがちなある行動を積極的に認めてあげたい、と思うのです。 それは『中二病』です。 「自分は、特殊な力が備わっている物語のヒーローだ」と思うことで、「私が主人公」という「現実に立ち向かう事が出来る」意志を取り戻す事が出来るのです。もちろんその「特殊な力」は「アイアムアヒーロ」の「銃」の様に「虚構」の存在です。その為、現実に対して何の効力も持ちません。 しかし「大人になる時」=「虚構に頼れなくなった時」、そこには「現実に立ち向かう私」がしっかりと残るのです。 後から思い出せば恥ずかしい過去である『中二病』でも、それは先を生きる糧になるのです・・・という自分の過去の言い訳をしつつww。 だからもし『中二病』を見てもバカにせずに優しく見守ってあげて欲しいと思うのです。
by Spankpunk
| 2010-10-09 23:52
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