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![]() そうま竜也『もっちゃん』は04年9月の「コミック天魔」で連載が始まって、その後「LO」に掲載誌が移りほぼ毎月連載されていたものの6話目でぷっつりと途絶えてしまいました。ですがその4年後の09年に「LO」で最終話が描かれ、よーーーーやく単行本として発売された作品です(私は連載当時、美少女コミック文化をそれほど知らなかった為、09年の「LO」で始めて「もっちゃん(という少女を)」を知ったわけですがw)。 この『もっちゃん』の書評をする前に、「LO」の・・・もっと言えば「美少女コミック」全体に対する『読み方』について知っておいて貰わなくてはいけない。 そもそも創作された物語に対してそれを観賞する際、そこには必ず『複数の視点』が存在している。 もっともわかりやすいのが物語全体を俯瞰・把握し全体を理解しようとする超越的な第三者・・・言うなれば「神の視点」である。この視点では物語で起こった全てを把握しており時間/場所/人物に限定されない特権的な役割である。 一方で「神ではない視点」が存在し、これはかなり限定された視点である。言うなれば物語の登場人物全てに一つずつ以上存在する視点である。そしてこの登場人物の視点を感じることが自己投影/感情移入であり、物語内に登場する全ては視点の中心として機能することができる。つまり読者は物語内の全てに「自己投影する権利(あるいは義務)が与えられている」ということになる。 そして物語を読む際この視点は常に一定ではなく、あらゆる視点を移動し/あるいは同時にそしてその視点ごとの割合を常に変化させながら自由に揺らいでいるのである。 「美少女コミック」においてこの視点の移動はかなり重要であり、「女とSEXしたい」はそのまま「女になってSEXしたい」とイコールである。マッチョな「女性に対する所有欲」の延長線上にはトランスセクシャル的な「女性との同一化」が存在し、それは常に性と切り離す事のできない当たり前の欲望なのである。 そして「ロリコンマンガ」(私自身が「LO」と「mate」をメインに購読しているため―「mate」はロリコンマンガじゃない、という反論はあるでしょうが描かれる内容のメンタリティは近いのでちょっと強引にここに入れます―主にその二つでの感想になりますが)はその視点の移動に関してかなり意図的/戦略的に取り入れられています。 「男性視点」から「女性視点」への作品内目線でのジェンダーの転換はエロティックなものとして、興奮を高める為に行われていますが、では何故「ロリコンマンガ」はそのジェンダーの転換を意図的/戦略的に取り込もうとしているのか? そもそも「ロリコンマンガ」を読む人々のうち、本物のペドフィリアが一体どれだけの割合でいるでしょうか? 実際に統計があるわけではありませんが、社会全体の人口割合に対して低いように思われます。 それは一時期ブームになった「ロリータ系写真誌」に載っていた「ロリコンマンガ」は数える程度であり、また同時期にあった「ロリータコミック誌」において実際の少女のグラビアが掲載されることは殆どありませんでした。 この事から「実写系ロリータ」と「二次元系ロリータ」はそのムーブメントの初期段階から既に別の層として存在しており、本物のペドフィリアは「二次元系ロリータ」=「ロリコンマンガ」には殆ど興味が無いことが伺えます。 では例えば「LO」を読む層が作品に期待しているものは何なのか? それは「LO」に掲載されている作品殆どに共通するあることから窺い知れます。 「LO」はかなり間口の広い雑誌で基本的に「ロリコンマンガである」という条件を満たしていれば掲載のチャンスがあるようにみえます。純愛もの、近親もの、痴幼女もの、レイプものと様々な切り口の作品が並んでいますが、その殆どに言える事としてSEX描写の中で描かれているのは殆ど女性側の反応であり男性側の快感は必要最小限でしか描かれていない、ということです。 つまりは「快楽の主体は幼女にある」ということで、これを単純に「男性による性的なファンタジー」と仮に捉えた場合、男性自身の性感に直接作用する「男性側の快感」が描かれていない説明をすることができません。そこには女性に感情移入することによる快感の享受という作用があって初めてセクシャルな作品として完成するのです。 「LO」はそういった視点がなければ性的な装置として機能しないマンガを意図的/戦略的に選択することによって(むしろ全ての「美少女コミック」はその側面を持っていますが、私が知っている限りでは「LO」がもっとも顕著にその性格を表しています)「ロリコンマンガ」と言うよりは「ジェンダーの転向に興奮する」中でも現実の自分の身体(成人した男性)よりかけ離れた転向(未成熟な少女)を特に性的なセンテンスとして重視する、想像力溢れる安全な階層に作品を発信しているのである。 で、今回の『もっちゃん』である。 主人公は中学二年生の「もっちゃん」こと「宮本里奈」ちゃんです。なんかこうむっちりとした体型が非常にエロス・・・な女の子なのですが 正直よく解らない理由から学校の先輩とSEXをして処女を捨てます。 この『正直よく解らない理由』というのが凄いところで、ここまでで述べた様に「LO」掲載作品は「男性が少女になりやすい」様な作品が多く、主人公である少女の心理説明に(それがどれだけ都合の良いものだったとしても―そこに手を抜かず、ご都合主義にならない作家としては東山翔とかですね―)結構なネームを裂きます、そうしなければナチュラルなジェンダーの転向は難しく、作品として中途半端な出来になってしまう可能性が高くなってしまうからです。 しかし『もっちゃん』においてその過程はわざと無視されており(それは同時収録の別作品が普通の大きさのコマでいけば5-6ページのネームで説明を行っていることから解ります)、見ようによっては危険な独りよがりの作品になっています。しかし、それが作品の質をむしろ上げる描き方として通用しているのは、「LO」という「ジェンダーの転向」が当然のお約束として仕掛けられている雑誌だからなのです。 「ジェンダーの転向」が当たり前の事態として受け止められている以上、次の段階として(東山翔・鬼束直的に)よりその心情を深く、リアリティを持って描くか、今回の『もっちゃん』の様に「当たり前でしょ?」という姿勢で読者のジェンダーの転向を起こす回路をより強化していく手法が取られる様になるのです。 そして『もっちゃん』はそこまで少女に対する感情移入を強要しながら、最終話において強烈なカウンターと救いを放ちます。 それは最終話中盤、初めてコンドームを使用してのSEXの後にでるモノローグにおいて 『うあ・・・・・・気持ちよくなかった・・・・・・』 『先輩の・・・・・・おなかの中に・・・・ないっ!』 『なんだか・・・・・とっても中途半端です』 『コンドームつけてまで・・・・・・』 『ちんこ・・・・・・いれたいですか? セックスしなきゃいけないのですか?』 『里奈は よく わからないです・・・・・・』 ここまで彼女はSEXに対して比較的好意的であり、性欲を満たす作品として非常に順調な展開をしてきました、それは読者が完全に彼女の視点で作品を鑑賞しているということです。 そこで唐突に突きつけられる、このメタ的とも言える「彼女の感情」は今まで上手く転換してきた読者の心に間違いなく傷を残します。 彼女と同一化し、彼女になってSEXを楽しんだ分だけ、ここで襲い掛かってくる悲しさは大きくなります。 その後コンドームなしでSEXをする際、「もっちゃん」は初めてSEXする時に眼鏡を外します。 『えと めがねつけたままだと 先輩に』 『本当の自分を見せてない気がして―』 この発言があらわすのは、前の発言で今までの同一化から切り離されてしまった読者に対して「もっちゃん」が旅立つ瞬間であり、今まで「意志のない自己投影の人形」として動いていた彼女が、ようやく「もっちゃん」としての意志で動く場面なのです。 それは「自己愛」から「他者愛」の関係を読者に強く求め、ここで繰り広げられるのは「性」ではなく「性愛」だという宣言に他ならないのです。 それはここまで、読者の自己投影に甘えて展開していた作品が、ようやく作品として自立する瞬間であり最終話に相応しい描写なのです(そしてそれはテレビ版エヴァの最終話で描かれた、視聴者「から」作品が開放されるという内容と非常に酷似しています)。 そして自立した作品は読者の記憶の中に残り、紐解けばまたいつでも蘇る甘い思い出になるのです。 それを示唆した最後2ページのセリフを書き出して、そうま竜也「もっちゃん」の書評を終えたいと思います。 もっちゃん『な なんですか?』 先輩 『んー いつものもっちゃんだなあって・・・・・・』 もっちゃん『いつものもっちゃんですよー』 先輩 『うん』 もっちゃん『?』 先輩 『それじゃあ また明日・・・・・・』 もっちゃん『うんっ また明日ねっ』 もっちゃん『あさっても 来週も』 もっちゃん『来年も 10年後も』 もっちゃん『このまま ずーっと 100年後もっ!』
by Spankpunk
| 2010-07-30 16:50
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