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by SpankPunk
| 2019-10-29 11:53
| 雑記
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『空の青さを知る人よ』です。 ※※※※※※※※※※※※※※ 武士は食わねど高楊枝、などとイキってみてもそれは士業であればこその話でありそういった場所から遠く離れてしまっては、地面に這いつくばり泥をすすり虫を食っていかねばならぬのである。 自分も若い頃はいくら惨めな境遇に落ちようとも、志だけは高く置いておかねばならぬ。浅ましく生きるくらいなら「腹を切って死ぬべきである(by又吉イエス)」と思っていた手合いであり、それはまぁ正直なところ若者ならば誰しも抱く観念だ。というか今でもそういった傾向は私の中にあり、それを押さえつけるのに必死だったりもする。 だから、例えば17歳の自分が目の前にあらわれたなら、まずは「とりあえず死なずに話聞いて欲しいんだけど……」と切り出すしかない、そんな現状を私は生きている。 『空の青さを知る人よ』を見ていて思い出したのは、グレタ・トゥーンベリ氏のことである。いま16歳である彼女が大人になったとき「あの頃」の自分を見てどう思うだろうか? それは決して彼女をバカにしているわけではない。私だって10代の頃は「まとも」じゃない世の中にいっつも怒ってたし、社会は嘘だらけで大人は汚くて、正義や真実はいつだって妨害され、それはお金や経済や利益や権力によって邪魔されるからだと思ってた。あのときそういう観念に突き動かされ、人類なんてさっさと滅ぶべきだと考えていたことは「あの瞬間だけ」に限定するれば間違っていない。結果に至った未来から過去を批判するなんていくらでもできる、あのときそう考えていた私は「あの瞬間だけ」の視座においてそういった考えしか持てなかった(まぁ今でも「人類なんてさっさと滅ぶべきだ」と思っているのは変わらないが)。 歳を取って別に自分の中で正義を求めたり倫理を尊ぶ気持ちは変わっていない(と思う)。 ただ「まとも」は個人差がすごくあって、別に社会は嘘でも大人は汚くもなくて、正義や真実は個人レベルなら意外と実践できて、それはお金経済利益権力と「切り離せない」ことがわかる。結局のところ人間は思ってるよりも正義が好きで、正しく善くありたいとは思っている。けどその正義や善が個人で違う「だけ」だし、どこに重きを置くかも全然違う。どこかに偏ることは割と簡単で、尖れば尖るほぼ味方がわかりやすくなる。 でもそれじゃあ結果として正義は成しえないとわかってしまう。 17歳(あるいは16歳)と31歳(あるいは37歳)の「正義」は違う。それはどちらも真摯で正当な「正義」ではあるけれど、やっぱり相容れないものなのだ。どっちが劣ってるとか、そういう話ではなくどちらも誠実な答えを必死で出しているという意味で等価である。 「Don't trust over thirty.」と初めて口にしたときの私は「当たり前だ、バカヤロウ!大人なんか信じれるものかよ!クソがっ!」と思っていた。だけどいまでも「Don't trust over thirty.」と呟いてしまう。それは自嘲と諦めと、そしていくらかの鼓舞のために。 10代のころからは考えられないぐらい私は変わってしまった。そう決して揺るがないと思っていたものが幾つも、何回もコナゴナにされている。そうやって30代になった私は信念なんて大したもんじゃあないと、どうしようもなく(良くも悪くも)私は変わってしまうことを骨身に染みてわかってしまった。 だから「信じるな」と自嘲し、諦める。それと同時にいまいる悲惨の道から外れることはまだ出来ると鼓舞しているのだ。 『空の青さを知る人よ』は苦笑いで「Don't trust over thirty.」と言わざる得なくなった大人が、若い頃の自分に【ではなく】!若い頃から今までの変遷、あるいは道程、あるいは「こうなるしかない、に至った経緯」を思い出して少しだけ予想外の方向へ踏み出すことを誘っている、そんな作品だった。 16歳の自分から見た31歳の自分は信じられないほど思いもよらなかった姿になっている。だがそれは15年間の間に少しずつ少しずつズレていった結果だ。 だったら31歳から15年後の46歳の自分もまた、いま思い描いてる姿とは(ポジティブな意味でもネガティブな意味でも)少しのズレが積み重なって全然違うものになっている、だろう。だったらちょっとずつ「良いと思う方向」へ半歩でもズレていけるように、と『空の青さを知る人よ』は背中を押しているである。 ※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの20分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-10-22 13:31
| 映画
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『JOKER』です。 ※※※※※※※※※※※※※※ その日は役所で生活困窮者自立支援法に基づく住居確保給付金を申請したあと、失業保険を給付されるための説明会に出た。そのままその足で映画館に向かい身体障害者手帳を手に、障害者割引を利用して『JOKER』の見た。 異常なほどに全てが脈絡で繋がっている日。 90年代の鬼畜スカムカルチャーを愛する私―障害によって解雇された私―無職で将来の見えない私……それらの多面的な「私」の日々が一列に繋がってまるで「最初からそうであった形」になっているかのようだった。 だから噂に聞いていた『JOKER』を見るのは楽しみだった。きっと私は「自分はジョーカーだ!」と高らかに笑い、叫び、手にしたマシンガンを乱射し死屍累々の山を築くのだろう。そういったヴィランに変身できるかもしれないと、そんな子供じみた(だがそれだけに甘美な)妄想にビデオカメラの被り物をしたダンサーが羽交い絞めにされるいつもの映像を見ながら、浸っていた。 だが『JOKER』の上映が終わり明るくなっていくシアターの椅子に座ったまま、私は一つのエピソードを思い出していた。それは伊集院光がラジオでも喋り、著書の中でも語った立川談志との会話だ。 ”2年ほど前になるか、自分の担当している夜のラジオ番組に立川談志家元をおよびした時のこと。 もともと古典落語の道をドロップアウトして今の世界に逃げこんできた僕としては、談志家元は特別な存在で、何より6年間の修行時代にピリオドを打った理由の一つが「名人立川談志」の落語だった。 仕事疲れか、それが素の状態なのか不機嫌そうにスタジオいりした家元。僕は「機嫌をそこねないうちに」とばかりにその話をした。 「僕は落語家になって6年目のある日、若き日の談志師匠のやった『ひなつば』のテープを聞いてショックを受けたんです。『芝浜』や『死神』ならいざ知らず、その時自分がやっている落語と、同じ年代の頃に談志師匠がやった落語のクオリティーの差に、もうどうしようもないほどの衝撃を受けたんです。決して埋まらないであろう差がわかったんです。そしてしばらしくして落語を辞めました」 黙って聴いていた家元が一言。 「うまい理屈が見つかったじゃねぇか」 僕はうまいことをいうつもりなんてなかった。ヨイショをするつもりもない。にもかかわらず、「気難しいゲストを持ち上げてご機嫌を取るための作り話」だと思われている。あわてて「本当です!」と言い返したが「そんなことは百も承知」という風に家元から出た言葉が凄かった。 「本当だろうよ。本当だろうけど、本当の本当は違うね。まず最初にその時お前さんは落語が辞めたかったんだよ。『飽きちゃった』とか『自分に実力がないことに本能的にきづいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからないけどただ辞めたかった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないもんなんだ。そしたらそこに渡りに船で俺の噺があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるなら、自分にも余所にも理屈つくってなわけだ。本当の本当のところは、『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」” (伊集院光『のはなし』「好きな理由」の話 より) (画像クリックでAmazonに飛びます) 『JOKER』でジョーカーへと変身するアーサーには次々に不幸が襲い掛かる。仕事は解雇され、福祉で受けていたカウンセリングと薬の処方は停止、母の異常、幼いころの虐待、尊敬していた人物には馬鹿にされる……そういったどうしようもないトラブルによって、ついにアーサーはヴィランとして覚醒する。 その姿に私は高揚を覚えた。 「そうだ!社会はクソで、貧困に殺される!救いは無い!全部ブッ潰してブッ殺してブッ壊してくれ!何もかも滅茶苦茶になればいい!ジョーカー、お前の高笑いは私たちの凱歌であり、そして鎮魂歌なんだ!」 だが果たしてそれは本当だろうか? ジョーカーの口から語られるオリジンは、全て嘘の誕生秘話だ。全てを笑うジョーカーというヴィランは、自分の生まれた経緯さえ(それは悲惨だったり陰惨だったり、あるいはひどく間抜けだったりする笑えない内容ではあるものの)ジョークに変える。 それならこの『JOKER』が語るジョーカーのオリジンは本当か?嘘か? アーサーは妄想に悩まされている。エレベーターで乗り合わせただけの女性と恋人になっている映像は、全て彼の脳内で生まれただけのものだ。自分のネタがウケてるのではなく、その病気からくる笑いがバカにされてるだけだというのが思い込みでないとなぜ言える?本当に母が狂っていたのか、それとも金と権力を持つトーマスによって事実は捻じ曲げられたのか……。 この物語を見て「私もジョーカーだ!」とは思わない。彼を待望し、彼に心酔し、彼が好きだとしても私はジョーカーになれない。良くてジョーカーに恋してヴィランになったハーレイ・クイン、順当にいけば暴徒の一人、一歩間違えればどさくさの中で頭をカチ割られて地面に転がる死体。 そしてそれさえも嘘か本当かわからない『JOKER』の物語に感化された結果である。 ジョーカーはとんでもない悪だ。だがそれはこんな理由がある、こんな不幸がある、こんな「どうしようもなさ」に翻弄された結果だと『JOKER』は告げる。それは近い状況にある人々を焚きつけると同時に、一つの安心を与える。 「その理由が無ければ、その不幸から救えれば、そんな「どうしようもなさ」を失くせば、悪は生まれないジョーカーは誕生しない」 作中で金持ちたちがチャップリンの映画を見て笑うシーンがある。弱者を描き社会風刺したチャップリンの姿と、それを見て笑う金持ち。理由があってヴィランとなったアーサーの姿と、それを見て安心する(あるいは共感する)私たち。 私たちはジョーカーの誕生に恐怖し戦慄し高揚すると同時に「安心」しているのだ。 理由があるから悪に走る。 それは「理由さえあれば悪に走ってもいい」という免罪符であり、同時に「理由がなければ悪には走らない」という秩序と善(あるいは優しさと愛)への信頼だ。 この『JOKER』というオリジンを語るジョーカーは、そんな「理由」にしがみつき、「理由」を与えられればそれを疑わない私たちを笑っているのだ。 ”『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるなら、自分にも余所にも理屈つくってなわけだ。本当の本当のところは、『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな” アーサーの不幸にジョーカーとなった理屈がつくのなら、私たちが安心できる。 でもジョーカーになるのに『理屈なんざねェ』としたら? しかし同時にそんな疑問は「ジョーカー」の誕生によって押し流される。本当のことがどうであれ今ここに稀代のスーパーヴィランである「ジョーカー」は目を覚ましたのだ。 それはこの『JOKER』自体も同じことだ。この物語の真偽を明らかにしたところで『JOKER』が今ここにあることとは何の関係も無い。ただ私たちは一人の男の悲惨な人生を目にし、彼がジョーカーへと変身するところを見届け、喝采する。例えそれがジョーカーの笑えないジョークだとしてもだ。 そしてこの『JOKER』はジョークであると同時に、ジョーカーからバットマンに宛てた「ラブレター」でもある。スーパーヒーローとしてゴッサムの街を守るために戦うバットマンの敵は多い、ともすれば『バットマン』を代表するジョーカーですら「数多くのヴィランの一人」に埋没しかけるくらいには。そうでなくともバットマンの目的は街の治安であり、相手が誰であろうとその振る舞いは本質的に変わらない。 だからこそ『JOKER』はバットマンにこう告げる。 「ジョーカーを生んだのはお前の父、トーマス・ウェインだ。そしてお前の父が死んだのは、ジョーカーのせいだ」と。 父の死を契機とするバットマンのオリジンはジョーカーが居なければ存在しないということであり、その父の犯した罪を贖罪する相手であり、同時に父を殺した憎い相手である。『JOKER』が語るジョーカー誕生の物語は、バットマンに「もっと俺を見ろ!俺とお前は切っても切れない”特別な”関係にあるのだ!」と叫んでいる。それが「ラブレター」でなくて何なのであろうか。 そしてこれほどまでに熱烈なラブレターはそれを盗み見てしまった人(つまり私たちだ)をも強烈に惹きつけてしまう。ジョーカーの叫ぶ愛の言葉に、私は恋に落ちるのか?でもそれは『JOKER』を見たからなのか?『JOKER』が語る真偽の不明なオリジンに感化されたからか?それともジョーカーの狂気に濡れてしまったからか? 人は恋をしたとき、その恋に落ちた理由をいくつも並べる。かっこいい、優しい、誠実、清潔感がある……etc。 でもそこに本当のことは無いのだ「なんとなく好きになった」というだけで『理屈なんざねェ』。 ハーレイ・クインになりたい私は、ジョーカーの誕生と恋に落ちる瞬間を並べることに、何の違和感も持たない。 ※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの3分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-10-15 07:45
| 映画
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『惡の華』です。 ※※※※※※※※※※※※※ 正直なことを言うと、「これは私、酷評するかもしれないな」と思って見に行った。 と、いうのも私はアニメ版の『惡の華』(2013年)がかなり好きで、普段書いてる批評でも取り上げたころがある。そしてなぜアニメ版『惡の華』が良かったのか?ということを考えれば、実写化にあたって私とは相性が悪くならざる得ない……そう思ったからだ。 結論から言えば、実写『惡の華』、とても良かった。そしてそれはアニメ版とは「明確に違っていたから」だ。 『惡の華』には原作の漫画版、アニメ版、そして今回の実写版とあり、それぞれで「キャラクターデザイン」が大きく異なっている。二次元と三次元の差がある漫画・アニメと実写では当然キャラデザは(実写の役者をそう呼ぶかは一旦置いといて)違っていて当たり前だ。しかしロトスコープによって描かれたアニメ版も、原作とはまったく異なったキャラデザになっており、これら3つの登場人物を並べたときそれらが「同じ作品である」と何も知らずに看破するのは不可能だろう。 そしてそこまで表現が違えば、当然のように受ける印象も変わる。 特にそれが顕著に働くのが「共感」の部分、わかりやすく言えば「このキャラクターは私だ」という感情を喚起するか/あるいは疎外するかというポイントだ。 漫画原作では主人公・春日の心情を中心として描くことで、春日の持つ煮え切らなさを丹念に描写しつつ「漫画」という「自分の手でページをめくる」=「物語の進行スピードは読者に委ねられる」という特性から、主に春日の在り方に寄り添って物語を受け取ることとなる。合わせて他の主要人物である仲村・佐伯・常盤に対しても、描写の比重をコントロールすることで「その瞬間の彼女(たち)の情動」を半ば強制的に読み込ませていく。 アニメ版ではロトスコープによる描写によって、非常にリアリズムを持った挙動でキャラクターを表現している。にもかかわらず、私たちはそこに対して強く共感することを「阻害」されてしまう。 これは過去の論考で書いているので(詳しくは『あのすぱらしい愛をもう一度』および『あのすぱらしい愛は3ダーロード』参照のこと)ざっくりと述べるに留めるが、実在の身体の挙動と非常に近い、だが近いが故に「違う」部分が特にクローズアップされてしまう。いわゆる「不気味の谷」に近いものではあるが、そういった「ほとんど同じだけど、ちょっと違う」とき私たちは「違う」をどうしても強く認識させられてしまう。 その結果としてアニメ版は「共感」を強く阻害する方向に印象を傾けてしまうのだ(そして私はそこがアニメ版『惡の華』の本当に素晴らしいところだと思っている)。 そして実写版に置いては、主要人物全体に対しての「共感」を喚起する作りになっている。春日だけではなく、漫画版ではキーとなる場面に集中して描かれた心情が「実在の人物が演じる」という、現実の身体が持つ説得力によってブーストさせられており、全てのキャラクターに対して同調する部分を探しやすい構造になっている。 これはそれぞれのキャラクターから「都合の良い部分にだけ共感する」という態度を引き出してしまう欠点もあるが、本作では127分という時間で『惡の華』をまとめるためにそういった欠点を自覚した上での表現を選択しているように思える。 原作漫画、アニメ版、実写版でそれぞれが切り取った「作品の表情」が異なりながら、それぞれが確かに『惡の華』である。という意味において実写『惡の華』は、漫画の実写化として「成功」と呼んで差支えないと思うのである。 と、ここまで来てこういった稀有な成功例として思い出したものがある。原作漫画『ピンポン』の明るくポップな面を切り取った実写『ピンポン』と熱ともがきを描いたアニメ版『ピンポン』の関係、それに近いものが『惡の華』にはあるのではないだろうか。 ※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの16分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-10-08 12:38
| 映画
元々ゲームは好きだから一応目についたものは落として軽く触っては見るのだが、まぁこういったものは相性の部分が大きいので少しプレイしてみては「なんか私にはあんまり合わないな」と思ってアンイストールはしないまでも、まったく触らなくなってしまう……ということを繰り返している。 あるいは最初のうちはそれなりにしっかりプレイしてみても「あ、ここらへんぐらいから時間or課金が必要になってくるな」と感じたところで、そこまで時間を割くこともできないし、さりとて課金をするにはもう一歩か二歩(私への刺さり方が)足りないんだよなぁ……と感じてゆっくりと撤退してしまうものも少なくない。 だからいま面白いと思っている気持ちがどのくらい続くかわからないけれども、それでもこの瞬間は結構しっかりはまってしまっているのだ。 『けものフレンズ3』に。 特に戦闘システムが良い。基本の部分をざっくり説明すると ・自前のキャラクター(フレンズ)4体+他プレイヤーからのレンタル1体でパーティを組む。 ・フレンズには6つの属性に別れており、3すくみ2系統(ぐーちょきぱー/鉄砲きつね庄屋、みたいな感じ)になっている。 ・1ターンに3行動を選択する。 ・選択できる行動は「Beat(高ダメージや全体攻撃)」「Try(次ターンの攻撃力にボーナスが加わる)」「Action(必殺技である「けものミラクル」を使用するのに必要なゲージをためる)」がそれぞれのフレンズに(ある程度)ランダムに割り振られ、それを選ぶ。 ・3行動を誰が行うかは自由。同じフレンズを3回攻撃させても良い。 さらにそこから ・別フレンズが連続して同じ行動(例えばBeat+BeatとかAction+Actioなど)をすると「けもコーラス」が発生する。通常は3行動を揃える「3コーラス」まで。 ・けもコーラスが発生するとボーナスが追加される。Beatなら攻撃力アップ、Tryは次ターンの攻撃力ボーナス増加、Actionならゲージ加算量が上昇。コーラス数によってボーナス量が増える。 ・さらにけもコーラスが発生すると「おかわり」ゲージが溜まる。これもコーラス数によっておかわりゲージ量が増える、具体的には2コーラスで約1/4ゲージ、3コーラスで1/2ゲージ。 ・おかわりゲージが一定数溜まると、「おかわり」が可能に。おかわりは1ターン中の行動回数を増やす。 ・「おかわり」を溜めれば1ターンに4回5回と行動可能に。 そして ・同一フレンズではけもコーラスが発生しないので、最大コーラス数はおかわり2回+5体パーティで全部同じ行動=5コーラスとなる。 ・5コーラスのボーナスはかなり大きく、おかわりゲージも「おかわり」1回分が即溜まる。 ・相性有利のフレンズが3回行動するよりも、けもコーラスを発生させたほうが有効な場面が多い(当然例外は多いが、相手が強いほどその傾向は強い)。 ・配られる行動内容はランダム性が高いので、パーティメンバー多いほどけもコーラスが発生しやすい。 ・むしろやられて戦闘から離脱するキャラが増えると、残り人数=コーラス数の限界となる(下の画像なら2コーラス以上はどうやっても発生させられない)。 ・なので3行動できるからといって特定のフレンズを徹底強化するより、全体で戦線を維持できるようにするほうが有利(使うフレンズ全員にきちんと意味を持たせられる)。 といったように運と戦略性が組み合わさった戦闘システムと、全てのキャラクターに役割がある/必要とされる感じが、ものすごく自分の好みに合っていて、楽しい。 でもそれだけじゃあないんです! よいゲームというのはシステムとシナリオが密接に絡んでいるものだと思っていて、シナリオがシステムに意味を与え/システムがシナリオを補強するという相互関係にあると私は考えています。 そして『けものフレンズ3』にはそれがある! まだサービス開始したばかりなのでシナリオが全2章24話分しか実装されておらず、これからまだまだ先はあるようですがいまのところ ・敵である巨大セルリアンがいるらしい。 ・それを見つけ出す探索を続ける。 といった話になっています。その中で ・巨大セルリアンは強力で勝てない可能性が高い。 ・ひとりでは勝てないだろう、けど他のフレンズと協力すれば……。 ・巨大セルリアンを倒せるような、大きな「群れ」をみんなと作る! そういった決意を主人公のドール(アカオオカミ)が見せます。 これ!これです! ひとりでは「けもコーラス」が発生しない。ふたりでも2コーラスが限界。 でも仲間がいればいるほど「けもコーラス」は発生させやすいし、それが強い力となる。そしてそのためには「群れ」であることを維持する(できるだけパーティメンバーを生存させる)必要がある! こういう 「シナリオがシステムに意味を与え/システムがシナリオを補強するという相互関係」 が見られるゲームが、私は大好きなのです。 まだリリースされたばかりなので、始めるならいま! みんなも一緒に アフリカゾウ、超好き。
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by SpankPunk
| 2019-10-02 16:30
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