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なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『HELLO WORLD』です。 ※※※※※※※※※※※※※※ これを読むなら視聴済みってことでネタバレ全開でいくからね?よろしくおねがいします。 虚構に対する現実の優位性は自明で、そこへ反逆するかのように虚構と現実を等価に繋ごうとする作品なんていっぱいあって……例えば私がよく話に出すのは筒井康隆『朝のガスパール』、『serial experiments lain』、『ヘボット』あたりが、そういった現実と虚構の間には境界はあるけど上下は無い、あるいは相互補完関係にあるというメッセージを持った作品たちで。 『HELLO WORLD』もその系譜にある……ようで意外と無い。 作中で語られるのはひたすら「虚構間での優劣の解体」であって、そういった世界Aと世界Bが等価であるという話をする際に虚構同士で争われても「いやそらそうでしょ」という感想しか持てない。 もちろんラストの展開で「そう思ってる私は……?」を喚起したいのはわかる。わかるんだけれども、揺さぶられる「私」よりも遥かに良い世界を提示されることで「うーん、まぁやりたい事はわかるんだけど、それじゃあ刺さらないなぁ……」って思ってしまう。 特にいま私は「現実に対する虚構の優位性」、つまり「現実の私たちは、虚構の彼らよりも劣る」ことを叩きつけてくるような作品に惹かれている。 例えば『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を題材として批評の中で、『打ち上げ花火~』が見せた「虚構の勝利宣言」にいたく感動したのだ。 これに関しては電書にまとめてあるのでそちらをよろしくおねがいします。 で、結局『HELLO WORLD』はそこに至りそうで至らない、むしろリーチしかけたことで「そうはならない」ことを補強してしまっている。だから私には合わなかったのだ。 「あなたが現実だと思ってるものなんて、本当はどうかわからない」ってショックよりも、「あなたはどう頑張っても現実にしかいられない、どんなに帰りたくなくても現実に帰るしかない」ほうがすでに何百倍もショッキングな世界になっているのだ(これは『ドラクエYS』も同じ失敗をしている)。それをせずに視聴者の「現実」を使い古された方法で揺さぶろうなんて、正直手抜きにしか思えない。 それに対して今年の作品で言うなら『けものフレンズ2』のほうがはるかに誠実だ。 『けもフレ2』自体は問題がある作品ではあるけれど、続編として「フレンズ」という設定に対する向き合い方は「容易くない方法」を選んでいて、そこに対する姿勢は評価に値すると思っている。 人間と動物は違う……あるいは人間も動物でしかないとして、その上で「人間とフレンズは違う」。設計された存在としてのフレンズは(あるていどの差はあれ)コントロールされた能力、性質、知能しか持つことができない。創造者と作成物として絶対的に「人間とフレンズ」は違うし、人間には支配する「義務」があるし、それは絶対に暴力性を持つ。例えばイエイヌに対する批判がその一例だ。イエイヌの性質をパーク内での「遊び」として都合よく調整されて実装されたものに対して、私たちはペットを飼うという行為について回るどうしようもない暴力を自覚させられてしまう(それが元からの『けもフレ2』に関する悪評と相乗効果を持つことで、自分たちの行使する暴力から目を逸らさせて「作品が悪い」と誤認してまったわけではあるが)。 そういったある種、絶対に好まれない話をした。真剣に向き合えばこそ「するしかなかった」『けもフレ2』の在り方は、十分に称賛されるべきである。 私は『HELLO WORLD』のたとえ出来が良くてもイージーな物語より、『けもフレ2』の問題は多々あるけれど挑戦した物語が好きだ。 これは好みの問題でしかないが、だってこれそういうブログだからそれでいいんです。 ※※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの20分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-10-01 12:03
| 映画
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『記憶にございません!』です。 ※※※※※※※※※※※※※※ 政治を舞台とする喜劇には二つの作用がある。 現実を換骨奪胎し、風刺と毒と苦笑で彩り、人間を戯曲化することで事態の空虚さ間抜けさを炙り出す作用。 わかりずらい関係を整理し、単純化と誇張と幼児化で丸め、出来事を一般化し軟化させ政治色を脱臭する作用。 これらは同じ題材を使用しながらも、結果的にあらわすものが真逆になる。つまり前者は「時事的で尖った」ものに、後者は「普遍的で柔らかな」ものに。 『記憶にございません!』は「全国民から嫌われてる総理」を中心に据えながら、しがらみと裏取引に満ち満ちた政局に飛び交う金をわかりやすく描き、そして記憶を失ったことで「そういったしがらみから離れた」政治家が何をするのか?何ができるのか?という物語だ。 このあらすじを聞けばいまこの日本に住んでいる者ならば「ああ、あの人がモデルね。いまの政治は実際そうだもんなぁ」と(好悪は別として)頭に特定の人物を思い浮かべて考えるだろう。だがしかし、恐らく10年前でも30年前でも50年前でも、あるいは10年後でも30年後でも50年後でも、このあらすじを聞いた人は「ああ、あの人がモデルね。いまの政治は実際そうだもんなぁ」と思うのである。 その時々の現職総理大臣と限定すれば基本的に「ひとり」しか存在せず、いつだって政治家は嫌われ、汚職は取りざたされ、シンプルで率直な答えこそが「最良で最善な政治である」というイメージは、常に世には蔓延している。つまり『記憶にございません!』は先に述べた二つの作用のうち後者の「普遍的で柔らかな」ものを描いた作品である。 それは物語の半分ほどが総理の家族の話――妻との関係を再構築することや、軽蔑されていた息子から尊敬を取り戻すことに費やされることからも見て取れる。結局のところこれは人間性の失調と回復を仕事の好不調に重ね合わせて、それを喜劇というスタイルで飲み込みやすくした「だけ」であり、これまでも作られそしてこれからも作られ続ける至って平凡な作品である。 そういった中で映像的な面白さや、表現の新規性、あるいはいままでと異なるチャレンジも無い本作は正直なところ「見ても見なくてもどっちでもいい」レベルだ。面白くない!と憤る娯楽にすら使えないほど(「怒る」ために映画を見に行く、というのはいまどきありふれた作品の「楽しみ方」だ)凡庸である。 とはいえ、今の日本で政治を語るのに必要なのは政治家などではなく「市井の人々における左右の対立」である。私たちは政治的な何かを語る際に、まず自分がどちら寄りの発言をするか、そしてそれがどう捉えられるかを念頭に置かないわけにはいかない。 そういった意味において『記憶にございません!』は左右どちらにも寄らない、というよりは「どちらかに寄ることすらできないぐらい主張の存在しない」作品だ。いまの世に政局を舞台とする作品を作りながら、ここまで左右から無視されるものを仕上げるのはかなり意図的な行為だ。 それが「見る必要のない作品にすることで、左右対立の無意味さを浮き彫りにする」と解釈するか、「叩かれないように気を使った結果、愚にもつかないものしか作れなかった」と取るかは……「まぁそのぉー」と今どき田中角栄のモノマネで回答を濁すしかないのである。 ※※※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの21分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-09-24 08:08
| 映画
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『台風家族』です。 ※※※※※※※※※※※※※※※ 10年前に銀行強盗をし2000万円を強奪したまま行方不明になった両親。その子供たちである長男/次男/長女/三男が両親を失踪宣告し、死亡したとして葬儀をあげる。ずっと散り散りだった4人の子供たちが今更になって「葬式」という名目で集まったのは、裏に隠された思惑があった。 明らかになっていく子供たちの狙いと、両親はなぜ銀行強盗などという犯罪に手を染めたのかという疑問、そして全ての疑問が氷解したあとに残るものとは……。 って書くとシリアスなミステリー感が無駄に出てしまうけど、実際はドタバタコメディ。 喜劇と悲劇、嘘と愛、憎しみと真実が(嘘と真実/愛と憎しみではないことも含めて)同時に駆動する物語は散りばめられた断片的な情報が繋がっていくにつれて、登場人物の誰もが想像もしていなかった「動機」を炙り出していく過程は決して退屈でもつまらなくもなく、約2時間の映画としては十分に満足できるものだった……が。 が。 物語の中盤に差し掛かるころ、その「犯罪者の葬式」+「残された遺族の醜い争い」が三男の手によって隠しカメラでネット中継されており、下世話なゴシップコンテンツとして世界中に垂れ流されていた(いる)という事実が明らかにされる。 ここが非常に残念なところで、結局のところ映画自体のカメラワークは普通に「映画」のものになっており、隠しカメラ/固定カメラによって撮影された映像はごくごく僅かしか登場しない。また後半に進むにつれカメラが設置してある場所から離れてしまう中で、このライブ配信を行った三男が撮影を続行する様子も無い。 こういった設定を持ち出すならもっと視聴者に対して最初から違和感を持たせて欲しかったし、それによって「下世話で醜い争いをする遺族たち」をニヤニヤと見ていた私たちに「この争いを喜んで見てるお前らはどうなんだ?」と突きつける効果もかなり薄くなってしまっている。 もちろんそういった視点自体がいくぶん古いもの(それこそライブ配信が勃興はじめのゼロ年代後半)であることは否めないが、主演が草彅剛というある意味「終わった時代を象徴」するようなキャスティングであることを含めて、そういった「ノスタルジィにすらなれない微妙な古さ」を志向する作り方をしていれば、もっと刺さるものがあったように思える。 その上で、現在私が実況プレイを行っている『Tellin Lies』というゲームがある。 今年発売されたこのゲームは、「録画されたチャット通話の中から、語られた”嘘”を暴き出し、真実を突き止める」というものだ。 作品自体が持つテーマがこの『Telling Lies』と『台風家族』は非常に似通っている。しかしゲームと映像作品におけるプレイヤー/視聴者の違いが如実にあらわれてしまっているのだ。つまりゲームはゲームである以上、必ずプレイヤーの能動的な操作を要求する。この『Telling Lies』においてその行動は「どんな嘘があるのか?」という探索から「なにが真実なのか?」へシームレスに移動していく。 そのグラデーション(嘘を回収する/真実を暴く)によって、私たちは常に虚実の狭間に立つことになり、見えたと思った真相が手から零れていったり、思いもよらない場所から本当の言葉が顔を出したりする。 そういった、いわゆるナラティブ性を中心に据えた「ゲームというメディア」に、作られた順番で伏線が張られて決まった手順で回収されていく映像作品で太刀打ちするのは非常に困難であり、『台風家族』は「完敗している」と言っていいだろう。 決してつまらない作品ではなかった。しかし明確な上位互換がある以上、褒めることはできない。 『台風家族』はそんな作品であった、あぁゼロ年代にこれがあったなら! ※※※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの19分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-09-16 23:48
| 映画
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。 その内容をテキスト化する再利用式ブログ更新、「一週遅れの映画評」。 今回は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。 ※※※※※※※※※※※※※※ 専門分野以外におけるアレさはあっても、やはりこの作品を日本語で語る役割として町山智弘以上の適任はいないように思える。 だから本当は「そのうちネタバレ有りの町山が書いた批評が出るから、それ読めばいいんじゃない?」で終わらせるのが一番間違いはない。とはいえ、そんなことを言っていたらあらゆるものに対して何も言及できなくなってしまう、だから改めてこれは「私の感想」だよ!という大前提の(今更な)表明をしておく。 そんな前置きが必要なほど『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、ある「時代」の「アメリカ」の「映画史」と密接に絡み合った作品であり、そこに対する知識があればあるほど面白くなる。 そういった意味ではものすごく『フォレスト・ガンプ』に近い作品であり、自分がちゃんと内容を受け止めれているか不安にさせられる。その感覚を日本の作品に当てはめると『アオイホノオ』を100%楽しむには、あの「時代」の「日本」の「サブカルチャー史」に対する知識が必要不可欠なのと同じだ。 だから完全に仕込まれたネタを解釈できているわけじゃあないし、正確に楽しめたかは自信がない。 それでもはっきりと伝わってくることがある。それは 「タランティーノ、お前本当に映画が大好きなんだな!」 ってことだ。 まぁ「タランティーノが映画を愛している」ことは当たり前すぎるほど当たり前なのだけど、それでもその「大好き!」をここまで剥き出しで作品に仕上げるのは凄まじいことだ。 歴史には色んな悲劇がある。アメリカ史に限ってもジョン・F・ケネディが殺されたりワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだりしている。そういった中で、もしタランティーノが「一度だけ、アメリカの歴史を修正できる」能力を得たとしたら? その力で「女優シャロン・テートを救う」ことを選ぶ。 この映画はそういう意思表明と言える。様々な悲劇や不幸の中から「シャロン・テートが生き続けたアメリカ映画史を見たい!」という欲望を持ち、その改変が起こる世界を描くということ。 それはひどく純粋な「映画が、大好き!」という(今更な)表明なのだ。 この映画が「面白かったですか?」と聞かれても、それに答えるのは難しい。 なぜなら映画が好きな人間にとって「映画が、大好き!」と高らかに宣言するような作品を、正確に評するのは不可能に近いからだ。 映画が好きな人が映画館に通い、その中で『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』という作品に触れる、そこで「映画が、大好き!」と言われ「私も!/俺も!」と思う。そういう面白いとかそういった次元とはちょっと別の場所にある作品だと思う。 だから「面白かったですか?」と聞かれても答えられないし、「見たほうがいい?」と聞かれても曖昧な笑みを浮かべるしかない。 なぜならこの作品が好きになる人は、きっと言われなくても勧められなくても「見てしまう」人なのだから。 ※※※※※※※※※※※※※※ この話をしたツイキャスはこちらの18分過ぎぐらいからです。 #
by SpankPunk
| 2019-09-10 00:22
| 映画
デートするのはそれほど嫌いじゃあない というかかなり好きだ。 要するに小規模の祭りであり、ハレの日は生活に対するテンションを乱高下させるという意味において欠かせないものだ。二人いれば(べつに性別が問われる時代でもなし、相手がフィギュアだろうが脳内妹だろうが全てはオールオッケー)開催できる祝祭であり、ごくカジュアルな神事である。 とはいえ、恋愛というものとお別れして久しい(これがどっちから別れを切り出してどっちがフラれかは微妙なところだ。ただ人間には様々な属性があるなかで「恋愛をするのに向いている/向いていない」「恋愛をしないのに向いてる/向いていない」という隣接したものがある。私は幸運にも「恋愛をするのに向いていない&恋愛をしないのに向いている」というシナジー持ちなので非常に快適だ。世の中には「疑心暗鬼と被害妄想だけでしかコミュニケーションが取れないけど、孤独に耐えられず寂しさを埋める自分にとって有効な手段が数パターンしかないうえそれにセックスが不可欠」という「恋愛をするのに向いていない&恋愛をしないのに向いていない」という、なんというかしんどい組み合わせの性質を持つ人もいる。ただそれが当人にとって楽しくないかと言うとそれもまた別問題だ、というのが厄介で面白い部分でもある)わけで、じゃあデートができないかと言うとそうでもない。 自分のやりたいことを推し量ってやって自分をエスコートして自分を楽しませて自分を不機嫌にさせて自分とセックスすればいい、というわけで(記憶に残る良いデートには途中で不機嫌になるという過程が絶対に不可欠だ)まぁ有体に言ってしまえば「デートでやるようなことを一人でやる」というだけの話なのだけどw(重ねて言うようだけど脳内妹でも主観的に複数なら「一人でやる」では無い) 使えるお金からちょっと無理して散財しつつ楽しそうなことをする、といえばただのストレス解消としてよくあることなんだけどそこに「デート」ってスパイスをかけることで嫌らしいサブカル感が増すわけで、結局のところ90年代半ばに感受性のピークをヴィレバンで熟成させた人間としてはサブカル(≠サブカルチャー)感が無いと心底楽しめきれないっていう問題がある。 ついでに言うならバブルの終焉滑り込みで生まれてオギャアと吸った空気に好景気の残滓が大量に混入していて、まだ浮かれてる大人たちを見送った幼少期とトレンディドラマに唾を吐いてた思春期を経過していたせいで「金を使う」「色恋を語る」ことからどうしても逃げられないっていう(デジタルネイテブだとこれが「インターネットを使う」と「不可視のコミュニケーションで語る」になるんだと思う)、実はそれが全部混ざるとアイドル文化に接続されたりするわけで、だから年代的には「アイドルにノるためにはエクスキューズが必要な世代」でもあるわけですよ。 とりあえずはキチンと時間を決めて待ち合わせをして、服も化粧もちょっと気合入れつつ引かれない程度に抜いて、もちろんこの部屋に雪崩れ込むことになっても良いように部屋を片付けておいてから出かける。 あとは美術館行ったり博物館行ったりプラネタリウム見たり本屋オモチャ屋服屋雑貨屋インテリア家具もっかい本屋を巡って見たり聞いたり適度に消費をする。映画を観にいくのは普通なら悪い選択肢では無いのだけど、私は経験上「デートで映画を観にいくとマジで取り返しがつかないレベルのケンカ」になるので(これはもう100%そうなる)別れたい相手以外とは行かないことにしているし、毎週やってるツイキャスで映画の話をしているせいで「デート」ってより「日常」の感覚が強くなりすぎるのが非常に良くない。ハレの日を維持するためには普段はやらないことをすべきだ。つまりユニクロに行くのは構わないが靴下を買ってはいけない。 もちろんデートなのだから食事は重要だ。というかこの世迷言ギリギリ手前の文章はこれを書きたいがために始めているようなものなのだが(いや一人デート自体は本当にやっているし積極的に推奨もしているのは本当だ)、半年前に引っ越した家の徒歩圏内にあるイタリアンのお店が最高の最高の最高で、当然素晴らしいデートの終わりを更に素晴らしく彩るために最高の店に行くのは当然のことだ。徒歩圏内、というミラクルによってお酒が飲めるのも完璧と言っていい……とはいえ私は下戸なので大して飲めない上、ここの料理が本当に最高過ぎて酔っぱらった舌で味わっては料理に悪い!という気持ちが強すぎてグラスワインを1杯いただくのが限界なのだ。ああなんて勿体ない、アルコールにもっと耐性があればお酒と料理の組み合わせで最高の最高の最高&最高になれるところだというのに!といった忸怩たる思いを抱える程には素晴らしいところなのだ。 最初の一回はほんとうにふらりと「家の近くにあるお店に行ってみるか~」程度の気持ちで入ったのだが、というかイタリアンだということすらわからないまま入ったにも関わらず、大衝撃を受け、それからよっぽど良いことがあった日か大事な日にしか行けなくてこの6か月で4回ほど行っただけなのだが、その全部で頼んだものを羅列して克明に書けるほどには全てが良い。 とくに「しらすと青のりのリゾット」。これが人間技の最上レベルなのだ、しらすと青のりがお米と同量くらい使われていて、素材としての米を野菜(穀物)とパスタの中間に位置するものとして扱う使い方が、米を主食とは考えない食文化におけるマテリアルの表明としてあらわれている。その上でチーズの香りが非常に尖っている、最初の一口目は「うっ」と感じるほど強いチーズのアタックに一瞬だが面喰う。だがそれはミスではなく、計算された失敗なのだ。 これだけ大量にしらすと青のりが入っているとかなり強い磯の匂いが立ち上がってくる。これが食べ始めは非常に豊潤な海の香りを感じさせるが中盤から後半にかけて、徐々に磯の強い匂いが鼻についてくる。特に温度が下がってくることで蒸気とともに抜けていった芳香は口内で滞留することとなり、鼻腔を通り抜けていく速度が落ちる。そうなると素晴らしかった磯の香りは一転して「磯臭さ」となって襲い掛かってくる。 そこまで来たときに強いチーズの匂いが意味を持つ。磯臭さをカバーし、合わさったときにベストな香りが立つように調整しているのだ。 最初の一口目がわかりやすくおいしいほうが恐らくは人に勧めやすいだろう、だがそこを捨ててでもトータルでの味わいによって設計された思考と思想と思念と思慮の痕跡が舌を通して伝わってくる。それが「神業」ではなく「人間技の最高レベル」なのは、そこにできること/やれることの取捨選択があり、その結果として作り上げられた一皿に哲学が宿っているからである。これは神の御業による奇跡などではなく、人の知恵を修練によって生まれたものであり、だからこその「人間技の最高レベル」と私は評するのである。 それとは関係あるような無いような話なのだが、私の現在住んでいる地域は比較的海が近く(とはいえ縦に長い島国において「海がわりと近い」に該当する場所はかなり多いが)、海産物が豊富のようである(目利きができるわけではないので「ようである」ぐらいの認識が私の限界だ)。 そういった地域における和食以外の料理人は実際のところかなり悩ましい問題を抱えているのではないだろうか? つまり豊富で新鮮な魚介類が使える一方でそれは日本の生物分布であり、その調理法が本来想定している素材とはいくぶん異なるのではないだろうか?そこの調整における困難さは素人には判断し難く、いったいどれほどの試行錯誤と決意があるのかは正直いってわからない(それは和食でもその調理法が生まれた地域でなければ同じ悩みを抱えているだろう)。そしてその悩みは付けられた値段に左右されないように思える。つまり安く提供するために選べる食材が限られるなかでベターを探す困難さと、コストをかけれるがゆえに膨大な選択肢からベストを見つける難しさに方向性の違いはあっても、その尊さに差はないのである。 私が料理人に(職業でなく家庭における料理を含め)強い尊敬を覚えるのは、こういった部分に起因している。 ……と、こういっためちゃくちゃ気持ち悪い食べログのレビューみたいなものを延々と書けるくらいには素晴らしいし、ああいった文章を書きあげてしまう気持ちはわかる、とてもわかる。 さて食事が終わればあとはセックスする、というのがデートの王道ではあるのだがお酒に弱い人間にしてみれば飲酒後のセックスというのは結構ご遠慮願いたいものなのではないか?と思っている。興奮すれば心拍数と血圧が上がる、このときアルコールに弱い人間に起きるのは「ちょっとマジで動きたくない頭痛」だったりするのだが……これは私だけなのだろうか? ここらへんが一人デートの優れているところである。つまりオナニーしようがしまいが、始めて途中で止めようが、酔いがほぼ冷めるのを待とうが自由なのだ。セックスとは恋人同士において非常に重要なコミュニケーションであるが、コミュニケーションであるかぎり「同意と妥協」の問題が常に付きまとう。「めちゃくちゃしたいのに相手が乗り気じゃない」とか「それほどこっちは盛り上がっていないのに相手の鼻息が荒い」とか、互いの性に対するテンションがガッチリ合うことは中々まれな出来事である(そして珍しく合致したときに限って避妊具が切れてたりするのだ。普段から冷静で落ち着いていてしっかりしたカップルでも、なぜか突然できちゃった結婚したりするのはそういうタイミングで油断が襲ってきた結果なのだろう、と思っている)。 そういった問題無く、自分に対してベストのセックスを選択できるのが一人デートの利点である。 ひとりって、本当に最高だなぁ。
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by SpankPunk
| 2019-09-05 21:44
| バカ
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