カテゴリ
ほんにゃら
姉妹ブログ
機械の花 宝石の蜂 以前の記事
2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 08月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 09月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 ほんにゃら
検索
タグ
最新のトラックバック
その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
|
・『ノロイ』と『GODZILLAゴジラ』/自覚しながら狂う 電車の中でずっと独り言をブツブツと呟き続けている人、びっしりとコピー用紙に細かな字で何かを訴えかける文章を書いたビラを配る人、「霊体ミミズから身を守るため」に体中にアルミホイルを巻きつけて行動する人。 決して多くはないけれども、誰もが似たようなものを一度は見たことのある光景だ。 そういった、いわゆる「電波な人」とすれ違うとき、私たちは無視を決め込み彼らの言動やテキストを耳や眼から遮断し、あるいは必要以上に距離を取りながら、そそくさとその場から立ち去っていく。 しかし、それら「頭のおかしい」とされる言葉や行動が真実だとしたら? 私たちは彼らが必死で発する警告の前を素通りし、災禍の中に自ら進んでいってしまってるのだとした? 2005年の白石晃士監督によるホラー映画『ノロイ』は、そういった物語である。 『ノロイ』に登場する堀光男という男性は、帽子や長いコートをすべてアルミホイルで覆い、さらには住居の壁前面にも同様にアルミホイルを貼り付けている。 絶えず手足を動かし落ち着かない様子で、意味不明で不明瞭な言葉をぶつぶつと呟いている。彼の配るビラには「霊体ミミズ」の脅威がびっしりと書き連ねられており、とても世間の常識からは考えられない内容が語られている。 あきらかに常軌を逸した人物であり、彼の存在を無視したり面白がったりしこそすれ、誰もその言葉に耳を貸すことはないだろう。 しかし『ノロイ』においてこの堀光男の語ることは、すべて「真実」である。 彼に見える「霊体ミミズ」は、人々を喰らい死に追いやり、あるいは禍具魂(かぐたば)と呼ばれる呪いに魅入られた少女を救おうと奮闘し、その行方を霊視し、あるいは禍具魂(かぐたば)をその体に宿した子供を殴り殺して呪いを消滅させようとする。 『ノロイ』という作品の中で徐々に明らかになっていく「真実」を追っている私たちにとって、「霊体ミミズ」に怯えながらも果敢に立ち向かおうとする堀の姿は紛れも無くヒーローである。 しかし、傍から見れば彼は完全な狂人であり、理解不能な人物なのである。 それと同様の構造を持っているのが2014年レジェンダリー・ピクチャーズ製作の『GODZILLAゴジラ』である。 『GODZILLAゴジラ』では「ムートー」と呼ばれる巨大生物がアメリカに出現し、それに対抗する米軍は芹沢博士に意見を求める。 しかし芹沢は「自然にはバランスを取ろうする働きがある。つまりバランスを破壊するムートーに対して、自然はそれを排除しようとする」という理由から「ゴジラが現れてムートーを倒してくれる」と言い放つ。 芹沢博士はその道の権威でもあり、きちんとしたスーツを着こなし言動も明瞭快活であるため覆い隠されてはいるが、言ってることやってることは『ノロイ』の堀光男とあまり変わらない。 誰もゴジラの存在に確信が持てず、ムートーによって街が破壊される中で「ゴジラが来て助けてくれるよ!」と言い出すのは完全に発狂した人物のそれであり、作中でも米軍指揮官から「こいつマジヤベー奴だったわ……」というリアクションで処理されてしまうのである。 しかしながら、芹沢の語る言葉は「真実」であり、結果ゴジラは現れムートーを撃退する。 『ノロイ』での堀と『GODZILLAゴジラ』の芹沢は、一見すれば「狂人のたわごと」でしかない言葉が「真実」である。という、私たちが世界と対峙するときに無視し、排除してしまうものに対する捉え方をひっくり返す役目を持っているのだ。 むしろ、作中では一応権威として扱われる芹沢よりも発狂した人物として描かれる堀ではあるが、真実を知ってしまった者として禍具魂(かぐたば)の呪いと戦おうとしているのに対し、芹沢は自ら何か行動を起すことはなく、「脅威」に対する態度としては、自分にできることを遂行しようとした堀の方が「真実」を知る者としては、はるかに正しいとも言える。 ・『コワすぎ!最終章』/見覚えのある事件とモキュメンタリーの強度 例えばこういった事件を見たことがあるだろうか? ・米オクラホマ州でのぞき男逮捕!トイレの浄化槽で汚物にまみれ、上を見上げて ・男子児童に「女にしたろか」等と声をかけ事案 ・女性の下着を奪い、口に含んだ男が逃走 これらの出来事から受ける印象は、理解できないおかしい人間が起した奇妙な行為……というものだろう。 前述した『ノロイ』『GODZILLA』が、発狂しているとしか思えない言葉が「真実」であったという表現から、2015年の白石晃士監督『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!最終章』はさらに一歩踏み出している。 前作『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版』で異世界に囚われてしまった人物を助けるため、カメラマンの田代は4つのミッションを達成する必要があることを告げられる。 そのミッションが「浮浪者の持っている人形をブン殴ってでも奪ってくる」「道行く女性のパンツを奪い、食べる」といった、とても異世界からの救出に関係があるとは思えないようなものだ。 そしてそのミッションの必然性は、田代にも視聴者にも開示されることはない。 ミッションを告げる人物の「これはお前らには見えない因果で繋がってる出来事だ。つべこべ言わずにやれ、やれば助かる」という言葉だけが、その行為に承認を与えるのである。 そして実際にそのミッションを達成した田代のもとへ、異世界に囚われてしまった人物が帰ってくるのである。 ここで、私たちにはそれら一見無意味で不条理な行為が、しかし「正しかった」と判明する。 先に述べたようなとても理解できないような事件。それは確かにその「事件」だけを取り出してみれば、頭のおかしい人間の行動でしかない。 しかし『コワすぎ!最終章』はそういった事件に意味を与えていく。 ピックアップされた事件、つまり文脈から切断されたそれらの行為は、私たちにとって理解不可能なものである。 しかし『コワすぎ!最終章』の中で描かれる「女性のパンツを奪い、食べる」という行為は、作品の中で文脈と接続されることによって「理解できる行為」となる。もちろん犯罪行為であり、許されることではありませんが、しかし私たちにはそれが「理由のあるやむ得ない行為」として眼に映るのだ。 それでもやはりこの「事件」が報道されるときには「女性の下着を奪い、口に含んだ男が逃走」という、とても理解できないような事件に変貌するのである。 ここで『コワすぎ!最終章』は私たちの認識を強く揺さぶってくるのだ。 つまり、意味不明な犯罪行為にも「もしかしたら何か理由があるのかもしれない」を想像してしまう”回路”が脳の中に生まれるのである。 もしかしたら「男子児童に「女にしたろか」と言わなければ、世界が崩壊する」何かがあったのかもしれない、あるいは「汲み取り便所の中に忍び込んで覗かなければ、大切な人が死んでしまう」のかもしれない。 もちろんそれらの行いは法に反したものであり、決して推奨されるべきではない。 しかし「何かどうしようもない理由があったのかもしれない」という回路が、全ての不可解で奇妙な事件を「別の世界を垣間見る」ための扉に変えていくのである。 『コワすぎ!』シリーズはPOV形式で撮られたモキュメンタリー(ドキュメンタリー風フィクション)である。 その中で語られる、普段私たちが「意味わかんない頭おかしい」と思うような事件が持つ「その文脈」は、普段そういった事件に対して違和感を覚えてる人々にとって、強固な意味を与えていく。 過去に見聞きした、そういった奇妙な事件を覚えていればいるほど「何か理由があるのかもしれない」という回路に次々と接続されていってしまう。 その記憶にある過去の事件が奇妙であればあるほど、このモキュメンタリーで映される事柄が「見ることのできなかった真実」として、現実的な手触りを帯びていくのである。 ドキュメンタリー風で語られるということは、この個別の事案の外側を映すことができない、ということでもある。 それは同時に「その外側にも、これと近いものがある」という可能性を開いていく。 「ありふれたし、かし奇怪な事件」は、この『コワすぎ!最終章』によって別の意味を持ち出す。 私たちの常識/非常識は撹乱され、そのたびにフィクションは新しい認識を与えてくれるのである。
by SpankPunk
| 2015-05-16 19:47
| 考察
|
ファン申請 |
||