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・二人の道化師 バッドエンド側の参謀であるジョーカーの元となった宮廷道化師(ジェスター)と、ボスであるピエーロ=ピエロ。これらは、どちらも道化師(クラウン)という役割に属する存在であるが、それぞれの持つ意味は異なったものである。 トランプのジョーカーは宮廷道化師の姿を模したものとなっている。それはトランプの絵札(J、Q、K)に対するワイルドカードとして採用されたものである。 彼らは「道化である」という立場だからこそ君主に対しても容赦なく皮肉と風刺を行うことができる、ある種アンタッチャブルなポジションを手に入れている。 『スマイルプリキュア』におけるジョーカーも、宮廷道化師と同様に作品における絶対者であるプリキュア達に対して強烈なカウンターとして機能している。 つまり作中で言われる「ハッピーエンド」に対して、その「正しさ」を嘲笑し迷わせる役割を担っているのである。 一方で同じ道化師でありながらピエーロ、つまり「ピエロ」には別の意味が与えられている。 ピエロの化粧には、他の道化師と違い「涙のマーク」が描かれることが殆どだ。 それは彼が常に悲しみを背負っていることに由来している。ではその悲しみはどこから来ているのか? ピエロは間抜けな姿や、愚かな行為でもって人々に笑いをもたらす道化師である。 そこには常に観客からの嘲笑と憐れみが向けられている。 ピエロは知恵が足らず愚かではあるが、それでもその自分に向けられている視線を敏感に察知する。しかし彼の道化師としての役割が、その嘲笑と憐れみに対して抵抗することを許さないのである。 だからピエロは何も言わず、人々からの侮辱を一身に受け、悲しみの涙を流すのである。 本来はピエロよりもジョーカーはより有能な存在である。では何故スマプリ作中において「ジョーカーはピエーロに吸収されている」のか? ジョーカーはプリキュアに対するカウンターであるため、その過程において常に(言うなれば後だしジャンケンのように)優位に立つことができる。 しかし、それはあくまで「カウンター」であるが故だ。 つまり元々の宮廷道化師が君主の庇護の下で君主に対する批判性を発揮できたように、スマプリのジョーカーも「プリキュアがいるからこそ」存在できる敵役なのである。 そこでプリキュアを倒すためには、独立した存在になる必要がある。故にジョーカーは「ピエーロに吸収されること」を選んだのだ。 さてピエーロ=ピエロは悲しみを抱えた道化師であるが、その悲しみはどこからくるのか? 先に述べたように、それは「嘲笑され馬鹿にされている」からである。 つまりそこにはピエロ以外の「他人の目」が常に存在しているのだ。 ピエロ自身が愚かで間抜けであることは間違いない、しかしそれだけでピエロは悲しむことはない。 「他人の目」がピエロに、自身が愚かで間抜けであることを知らせ、そしてその嘲笑が彼の心に暗い影を落とすのだ。 ならばピエロを悲しみから救うには、「他人の目」が彼に注がれなければいいのである。 つまり「人類の絶滅」こそがピエロを救う唯一の手段であり、ピエーロを駆り立てる動機なのである。 ・星空みゆきと「与太郎」 しかしその一方でプリキュア側である星空みゆき/キュアハッピーは、過剰に白痴化した人物として読み取られることが多い。 彼女はあらゆる事態に対して「ウルトラハッピー」と叫ぶ。それは決して何も解決はしない、ただただ彼女が「ハッピーであること」を表明するだけだ。 それは第13話の修学旅行回で言われた「どん底ハッピー」という言葉にあらわれている。池に落ちたり等々、散々な目に会いながらも星空みゆきは、ひきつった笑顔でどん底と言いながらも「ハッピー」と叫ぶのである。 それは彼女にどのようなトラブルが起きようとも、その内的世界には常に揺るがない「ハッピー」が存在していることの証明に他ならない。 つまり星空みゆきの中にある「ハッピー」は、外の世界――社会や常識といったもの――とは解離した、内的世界にある独自の基準によって成立し語られるのである。 そしてこのキャラクターは落語の「与太郎」……それも一般な馬鹿や愚か者の代名詞として言われるものでは無く、家元・立川談志が構築した「与太郎」像に非常に近いものがあるのだ。 談志の「与太郎」像を簡単に言うなら「生産性のない男」のことである。しかもこれは無能という意味ではなく、「なにもしないということをしている」という生産性の無さだ。 馬鹿で愚か者、あるいは呑気な怠け者として表現される「与太郎」は談志が言うには「非常識」なのである。この「非常識」とはどういうことか? それは普通の人が持つ欲を避けていることにある。与太郎は欲の中に人間の業や悪が存在していることを敏感に感じ、それゆえに働かないという「なにもしないということをする」ことを選んでいるのだ。 当然それは「働かざるもの食うべからず」といった常識からは遠く離れたものだ。それに対して与太郎は「じゃああたいは働かねぇからちょびっとしか食わねぇでいいんだ」と言うのである。 あるいはその姿を見て馬鹿だと思われても「別にあたいは熊っつぁんに馬鹿と思われても構わねぇ、あたいは別の価値観ってやつで生きてるんだ」と告げるのである。 つまり「与太郎」は星空みゆき/キュアハッピーと同様に、彼の内的基準によって社会や常識から解離した部分で「あたいの価値観」という「ウルトラハッピー」を達成しているのである。 その上で「与太郎/みゆき」は、世間からの評価などどこ吹く風といった按配で談志が言うところの「非常にハイパーな存在」となっているのである。 ・「与太郎とピエロ」「みゆきとピエーロ」 ここまで述べたことを合わせれば星空みゆき/キュアハッピーとピエーロは、同じ芯を持つ対称な存在であることが解る。 つまりどちらも「馬鹿で愚か」だと思われながら、みゆきはその「他人の目」を無視して自身の価値観を貫いているのに対し、ピエーロは過剰に「他人の目」を意識することで自身以外を排除しなければ済まないところまで追い込まれてしまっているのである。 同じコインの裏表でしかないみゆきにとって、このピエーロを単純に排除することはみゆき自身の存在をも脅かすことになる。 ピエーロの絶望をどうにかして解消すること……それだけがこの戦いの決着になるのである。 ピエーロは「他人の目」に苛まれている。それは誰か一人でも彼に対して嘲笑を続ける限り、拭い去ることのできない悲しみとして襲い掛かるのである。 しかし裏を返せば誰か一人でも、ピエーロに暖かな微笑みを向ける人さえいれば、それは彼が世界の全てに絶望せずに済む理由となるのである。 あるいは「他人の目」を無視できる「与太郎」の精神を手に入れることができれば、彼は「あたいの価値観」の中で「ウルトラハッピー」に生きることができたはずだ。 故に最終話において、ピエーロは巨大化したキュアハッピーの微笑みを受けながら、抱きしめられ消えていったのだ。 ピエーロは嘲笑ではない笑みを与えられることで、あるいはそのみゆきの胸の内に抱かれることで、救われることができたのである。
by SpankPunk
| 2013-02-15 21:36
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