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以下の文章は、電子書籍雑誌『山脈 Vol.3』への寄稿を転載したものである。 ・メタフィクションの行方 演劇用語に「第四の壁」というものがある。 舞台というものは、左右そして奥に1枚づつ計3枚の壁によって仕切られている空間であるが、さらにもう一枚「不可視の壁」がある。 それは「舞台と客席」を隔てる透明で、しかし強固な壁だ。 その演劇がフィクションであり「現実には存在しないこと」を忘却させる約束事の一つであり、作品が作品として成り立つ為に必要な壁なのである。 そしてこの「第四の壁」はセリフや演出によって「登場人物が観客に観られている」ことを自覚する時に崩れ去る。 それは本来舞台に存在しない視点を与える事によって「異化効果」と呼ばれる、観客がより能動的/批判的に演劇を捉える作用を与えたり、あるいは喜劇的な効果を起す手段としてnon sequiturな(演劇の約束事から意図的に外れるような)意図で採用されるのである。 またその「フィクションのあり方」を解体することにより、物語の枠の外を意識させるメタ的な言動として「ポストモダン」の文脈で解釈される場合も多く見受けられる。 その「第四の壁」を打ち破る……言い換えれば「虚構は現実へ跳躍し、侵入することは可能か?」という問題意識によって書かれたのが、1991年に新聞連載作品として発表された筒井康隆の『朝のガスパール』である。 ・『朝のガスパール』と「レベルの壁」 『朝のガスパール』において「第四の壁」は「レベルの壁」と呼ばれている。しかもその「壁」は通常の「舞台と観客(ここで言うなら「作品と読者」)」の間にある一枚の壁だけでは無く、複雑で多層的な構造となっている。 まず「第1レベル」として「まぼろし遊撃隊」というネットゲーム内世界が提示される。 このゲームは知的な遊びとして、大企業の重役や中間管理職クラスの所謂ホワイトカラーが、まるで休日のゴルフを楽しんだように広まっており、社会現象として扱われる程、深く浸透している。 そして「第2レベル」として、その「まぼろし遊撃隊」をプレイしている金剛商事常務・貴野原征三(きのはら せいぞう)を中心とした、ネットゲーム「まぼろし遊撃隊」に対する「作中での現実」が設定されている。 この「作中での現実」において、貴野原の妻・聡子は株のオンライントレードに失敗し、消費者金融からの多額の融資を受けている多重債務者となっている。 この時点で『朝のガスパール』は「虚構」と「虚構内虚構」が並列するメタ構造になっている、そしてここに更なる壁と世界が作られることになる。 それが「第3レベル」の「『朝のガスパール』を連載している作家」の世界である。 『朝のガスパール』を新聞にて連載している作家・櫟沢(くぬぎざわ)は、新聞社に送られた連載に対する投書、そしてパソコン通信のBBSに寄せられる意見を『朝のガスパール』の展開に反映させている。 連載の担当である男性記者・澱口(おりぐち)と今後の展開を相談するシーンは、作中で描写されており、更にそこでは現実の「新聞への投書」あるいは「BBSへの投稿」が実際にそのまま引用され、場合によっては櫟沢によって徹底的に罵倒されるのである。 そして、この「第3レベル」に送られてくる投書やBBSが、即ち「第4レベル」に相当する。 「現実」から発信された「投書・投稿」は「現実」のものでありながら、作中に引用され、小説の文面に書き出されることで「レベルの壁」を突き抜け「第3レベル」へと降りてくる。 そして「第3レベル」で言及された「投書・投稿」の影響は、「第2レベル」あるいは「第1レベル」へと影響を与えていくのである。 ここでまずは「外壁」から「内壁」へと向かう、一方通行の「壁の通過」が行われているわけだが、それはあくまで外部からの影響が作品に至る過程を描写したものであり、重要なのは如何にして「内壁から外壁へ」向かう「レベルの壁の崩壊」を起すか?である。 それは作中で述べられているように、かなりの長いテキストと力技によって引き起こされる。 『朝のガスパール』は第1・第2・第3レベルそれぞれの物語における各エピソードが順繰りに、螺旋状に語られる構造となっている。 そこに「第2レベル」のパーティー場面で頻繁に登場する「螺旋階段」という隠喩、そしてそのエネルギーの中心点が存在する「第1レベル」のゲーム内におけるとあるポイントへのアクセス。 その全てが一致し、さらに「第2レベル」から「第1レベル」への語りかけ、そして螺旋の中心を開放する「第1レベル」のエネルギーが揃った時、「レベルの壁」はようやく崩壊するのである。 つまりここで、本来は「多層的」な構造であった第1から第4までのレベルは、螺旋状に折り重なることにより「並列的」なレベル……外側を取り囲む「レベルの壁」という外殻によって存在が担保されていた存在から、同じ強度・同じ価値で存在する世界となる。 それゆえ「第2レベル」からの"声"は「第1レベル」に到達し、「第1レベル」の放ったエネルギーは隣り合う全ての「レベルの壁」を崩壊させたのである。 結果「まぼろし遊撃隊」のキャラクター達は「第2レベル」の世界に登場し、「第2レベル」と「第3レベル(そしてその中で語られ同化した第4レベル)」は融合し、ここに全てのレベルの世界が集うことになるのである。 全ての? いや、実はここにもう一つ「第5レベル」の世界が存在する。 それは「どこ」なのか、そしてそれは「どうやって」壁の崩壊を迎えたのか? その解答は『serial experiments lain』というSFアニメ作品で語られている。 ・ 『serial experiments lain』 玲音は世界に偏在する。 『lain』の世界観において特徴的なものが「リアルワールド」と「ワイヤード」である。 これはそれぞれ「作品内での「現実」を示す」言葉と「作品内での「ネットワーク内世界」を示す」言葉である。 リアルワールド・ワイヤードの関係は現実の「リアル/ネット」の関係とほぼ同じと考えて頂ければ概ね問題は無いが、『lain』作品内においてワイヤード=ネットは現在の我々の世界も密接に生活に関わり、より発達したシステムで作動している。 そしてもう一つ「ニューラルネットワーク」と呼ばれる『地球はシューマン共鳴と呼ばれる8ヘルツの独自な電磁波を持っており、地球の人口が脳のニューロンと同じ数になった時にそのシューマン共鳴を利用し繋がることによって、地球の意識が覚醒する』という理論が存在している。 もしこれが可能となれば、人は道具を使うこと無く地球全体を取り巻く意識にアクセスし自由にワイヤードで存在できるようになるのである。 そして「ワイヤード」はあくまで人造の世界であり、その情報量の膨大さを無視すれば「ワイヤード」において人は【全知全能】となることができる……つまり「ワイヤードにならば神は存在する」ことが出来る。 さらに「リアルワールド」とはその外郭にニューラルネットワークを持つ「ワイヤードの内側にある世界」であると考えるなら(事実、ほぼ全て現実のシステムがワイヤードに接続されている『lain』の世界では)、「ワイヤードはリアルワールドの上位階層」であり、「ワイヤード」を完全にコントロールすることは「リアルワールド」を支配することとほぼイコールの概念となのだ。 『lain』に登場する、英利政美(えいり まさみ)というキャラクターは「ワイヤードにならば神は存在できる」そして「ワイヤードはリアルワールドの上位階層である」という定義から、ワイヤードの神……つまり「全てを掌握する存在である神」を目指すのである。 しかし作中で主人公・岩倉玲音(いわくら れいん)は繰り返し「ワイヤードはリアルワールドと"繋がっている"」と説き続ける。 言い換るなら「ニューラルネットワーク理論」によって産み出されるネットワークは、地球のシューマン共鳴によって「人はみんな繋がっている」結果でしかない。 それは「ワイヤードはリアルワールドの上位階層」などではなく「ワイヤード」「リアルワールド」が共にお互いの影響を受けながら並列に同じ強度で存在しているという事の証明であり、「ワイヤード」と「リアルワード」は常に【等価に存在している】のである。 この考え方の差から玲音と英利は対立していくことになる。 そして『lain』最終話において、英利が崩したワイヤードとリアルワールドの壁を再生させるため、玲音は自身の存在全てをリアルワールドから消すことによって、ワイヤードの「女神」として孤独に生きていく事を選択するのである。 それは二つの世界が【等価】であるがゆえ「ワイヤード」のものは「ワイヤード」に、「リアルワールド」のものは「リアルワールド」に帰さざる得なかったからだ。 そこで分断されることによって初めて「ワイヤード」と「リアルワールド」は"繋がって"いることが出来るのだ。 しかし「ワイヤードの女神」となった玲音が「ワイヤード」と「リアルワールド」の両方に存在することは、英利の目指した「ワイヤードの神となり世界を支配する」姿そのものであり、彼のもたらした混乱を再現してしまうことになる。 故に玲音はリアルワールドにあった全ての「玲音」の「記憶」を全て消去する。 リアルワールドにおいて家族や友人と「繋がること」を求め続けていた玲音は、しかしここにきてリアルワールドとの「壁」に阻まれてしまうのだ。 しかし、そこにはたった一つの希望が残っているのである。 後半、玲音によって繰り返される言葉に『記憶なんてただの記録』というものがある。 作中において『だから書き換えてしまえばいい』とリアルワールドの玲音を「消去」する手段として使われつ手段ではあるが、しかし見方を変えれば『記録が残る限り記憶は消えない』ということを意味しているのである。 「ワイヤード」内において『記録』は『記憶』と区別することが出来ない。 それならば『記録』を保管することができれば『記憶』を、あるいは「思い出」を、いつでも再生できるということになる。 そしてこの概念によって、作品内ではわずか数分の映像ではあるが、玲音は「壁」を突破しているのである。 最終話での冒頭とラストシーンにおいて、玲音はノイズで擦れた映像の中から【画面の外】……つまり今その映像を見ている【現実の視聴者】を、はっきりと意識して語りかけるのだ。 第一話のラストでレインが言う「人はみんな、繋がっているのよ」というセリフの中での「みんな」に、「ワイヤードの人々」「リアルワールドの人々」に加え、この【現実の視聴者】に語りかける行為によって「本物の現実の人々」も含むことができるようになるのだ。 つまりここで玲音によって、『ワイヤードとリアルワールドが同じ強度で「繋がって」いる』ように、『ワイヤードと「現実の視聴者の世界」が同じ強度』の世界として存在し、「玲音」と「私達【現実の視聴者】」の邂逅によって、この二つの世界は「壁」を越えて「繋がる」ことができるようになったのである。 それはつまり『lain』を見た私達の「記憶」、あるいは今プレイヤーの中に入っている【lain】のDVDソフトという「記録」。 それらは「ワイヤード」と"繋がって"いる、ということなのだ。 「リアルワールド」において失われた「玲音の記憶/記録」は、【現実】の再生媒体によって読み込まれワイヤードを介していつでも「記憶」として蘇ることができる。 結果として一見ワイヤードに閉じ込められた玲音は、ここにある「記録」と"繋がる"ことを通して、ワイヤード・リアルワールド・現実の世界に遍く存在することができるのである。 『lain』において【虚構】から【現実】への「壁」を崩壊させたのは、その『lain』という作品が収録されたあらゆる「記録媒体」であった。 「記録媒体」によって「記憶」された玲音は、疑いようも無く【現実】に存在しているのである。 さて、話は『朝のガスパール』に戻る。 ここまでくればお解りだろう。 『朝のガスパール』に残された最後の「第5レベル」とは【現実】である。 ・【虚構】は【現実】へ《跳躍》する 『朝のガスパール』は最初に述べたように「新聞連載」の作品であった。 つまり、その新聞を取っている限り、毎日『朝のガスパール』は望む望まないに関わらず玄関先に届けられ、強引に【現実】の中へその体を捻じ込んでくるのだ。 『lain』において与えられた「記憶=記録」という概念、そして玲音という存在が「そこに記録があること」を「【虚構】から【現実】への《跳躍》」として機能させたように、『朝のガスパール』においては「新聞連載」という形式がそのまま「【虚構】から【現実】への《跳躍》」として働いているのである。 『lain』によって、あらゆる【虚構】は、ただそこにあるだけで【現実】への《跳躍》を起すものとなった。 『朝のガスパール』によって、望まずとも訪れるものであっても、それは強制的に【虚構】から【現実】への《跳躍》をもたらすようになった。 それを知ってしまったあなたにとって、【現実】は既に【虚構】によって常に揺らぎ、侵犯されるものとなったのである。 最後に『朝のガスパール』からの引用で、この文章を終えようと思う。 「でも、そうは言ってもわたしたちは、また会えるのですから。 本として出版された時に。さらに言えば本のページを読者が開くたびに。多くの読者がこの物語を読むたびに。 それでは皆さん、お戻りください。物語世界外の皆さんは現実に。虚構内虚構の皆さんはゲームの中に。レベル3の皆さんはレベル3に。レベル4のわたしたちはレベル4に。 それぞれの出口からそれぞれの世界へ帰りましょう」
by SpankPunk
| 2012-07-20 22:08
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